遊郭
時代考証を考える
【「吉原炎上」のウソ】はまだまだ続くのですが、内容が細かすぎて、「気楽に読めるもの」というこの連載の趣旨に反しますし、読者も飽きるでしょう。私も飽きてます。
そこで、何回かに一回は、あのシリーズ以外の話を挟むことにします。
今回は「吉原炎上」に関わりつつ、そこから離れて時代考証一般についてです。
テレビの時代劇は、よーく考えると、おかしな点が多々あります。「現実には水戸黄門は旅をしていない」とか、そういう物語レベルの話ではありません。フィクションである限りは、「実は水戸黄門は全国を旅しながら遊廓めぐりをしていた」「旅しながら盗賊をやっていた」なんて話であってさえも許されましょう。
「これは荒唐無稽な作り物」という合意があれば、「水戸黄門はパソコンでストリートビューを見ながら旅をしていた」ということになっていてさえ非難されるべきではないかと思います。映画「GOEMON」はそういう類いの映画でしょう。
しかし、多くの時代劇では、パソコンや車は登場せず、登場人物は「これが印籠じゃん」なんて言葉遣いはしません。「現実にあったかもしれない」と思わせる設定になっていないと見ている人は楽しめなくなります。
実際の江戸時代の町並みや人物のありようをそのまま再現しようとすると、今度はかえって奇異に見えてしまうこともありますから、そこは「まあまあ、細かいことは言わずに」という「お約束」になっているわけです。
私が子どもの頃、時代劇に登場する中年女性はお歯黒をしてました。歯が黒かったわけです。今も歌舞伎などではこの伝統を再現していますが、映画やテレビではほとんど見られなくなりました。
歴史を無視していると言えますが、今の時代に、お歯黒をした女性を見て美しいとは思えない人がおそらくは多く、中には「不気味」と感じる人もいるでしょう。視聴者に「あれはなんだ?」と思われてはドラマが成立しない。
そこで、「本当はお歯黒をしていたが、それはなかったことにさせてください」という「お約束」になっているわけです。視聴者としては頭の中で歯を黒くするのが正しい見方です。
江戸時代の京都では、仕切りのない路上の桶に男も女も立ちションをしていたわけですが、こんなもんを再現したら、視聴者の目はそこに釘付けになってしまいます。
これも、「この人たちは路上でオシッコをしていた」と頭の中で補足しながら観るのが正しいドラマの楽しみ方です。
言葉も同じで、当時のまんま再現するのはあまりに大変。今はなくなった言葉、当時はなかった言葉、今とは用法の違う言葉が多数ありますから、テロップを入れなければならなくなります、言葉のチェックも手間がかかり、役者がセリフを覚える作業は今の何倍もかかります。
これも、テレビでは実現不能のものとして、「らしく聴こえれば納得する」という「お約束」になっています。
着物も江戸時代を忠実に再現しているわけではありません。例えば、おはしょりが今のような形になってからまだ100年も経っていません。
昔は家の中ではおはしょりを解いて、裾の長い状態にしていました。これについては比較的正しく再現されていて、裾を擦って床を歩いていたりしますね。
外に出る時は、これを簡易に巻き上げます。これがおはしょりの始まりで、今のようにきれいに折ってから帯をするスタイルが広く定着するのは大正時代のことです。
花魁道中では、禿(かむろ)が裾を持って歩きますが、それ以外の時にはやはり簡易に巻き上げていたはずです。
しかし、これを再現すると、おかしな着物に見えかねないので、ここも「お約束」として、今の時代に合わせてます。
「奇異に見える」「物理的に実現不能」という事情による「お約束」は別にして、できる範囲で忠実に再現しようとするのが時代劇の時代考証だと言っていいでしょう。
時代劇、つまり江戸を舞台にしたドラマでは、おおむね「お約束」の範囲が固定されていて、時代考証をすべき範囲も固定されています。時代劇は絶えず制作されているため、時代考証もその蓄積でできてしまいます。
ところが、江戸より近いにもかかわらず、明治以降の時代考証は案外難しい。ドラマの蓄積が少なく、時代の変化が激しいためです。その上、明治の遊廓がどんなんだったか知る視聴者はほとんどいないのですから、テレビとしては好き放題やりたくなるのもわからないではない。
しかし、それなら、「荒唐無稽である」という合意が成立するように、純然たるフィクションにすればよく、実話である原作を使うべきではないでしょう。
と私は思って、「吉原炎上」のシリーズを始めたわけですが、もっと問題なのは、創作の余地のないはずの文章においても、間違ったことがしばしば書かれていることです。
たぶん6月になりますが、ポット出版から新刊が出ます。まだタイトルは最終決定しておらず、ここでは雑誌の連載タイトルをアレンジした『エロスの原風景』としておきます。
この『エロスの原風景』の中にも、いくつかセックスワークに関する文章が入る予定です。
ひとつはソープランドの元祖について。ソープランドの前身であるトルコ風呂の第一号を銀座にあった「東京温泉」としてあるものがよくあります。というか、それ以外のものを見たことがありません。
ところが、これはおかしい。単なる蒸し風呂としてのトルコ風呂は戦前から存在していました。
では、性的なサービスのあるトルコ風呂の元祖が「東京温泉」なのかと言えば、これも違います。「東京温泉」は閉店するまで性的なサービスはありませんでした。ミストルコというマッサージ嬢がいただけです。つまりは今のサウナや健康ランドのようなものです。
詳しくは本を読んでいただくとして、どこが元祖であろうとどうでもいいと言えばどうでもよくて、だからこそ、こういった情報が検証されることなく書き写されてしまいます。こういう話をどうでもいいとは思えない私としては、年単位の時間をかけて調べ続けてしまいます。
こういう作業をやり続けたところで、原稿料をもらって発表できる場はなかなかないですから、ライターが取り組まないのは当然ではあります。私はメルマガがあるので、こつこつと続けられていて、その蓄積をここでも書いているわけですけど。
この連載がいつまで続くかわからないですが、すでにいろんな人たちが書いている「性風俗に関するよもやま話」みたいなものではないセックスワークの側面を引き続き書いていく予定です。
「吉原炎上」のウソ 7/娼妓たちの関係
遊廓時代のスタイルを残している大阪の飛田では、今も同じく「いかに働く女たちの和を乱さないか」の教えが生きています。
女たちは決して自分から「遊んで行ってよ」などと直接客に声をかけてはいけません(ランクの落ちる店ではこれをやることもあるのは昔と一緒)。飛田では、声をかけるのはおばちゃんと言われる人たちの仕事です。おばちゃんは昔の鴇手の仕事もします。
また、客が見られるように、店先に女たちは出るわけですが、全員が横一列に並んでしまうと、器量の悪い子はなかなか指名されないので、一人一人順番に決まった時間だけ客の前に顔を出すことになってます。チャンスは等しく与えられ、その時間に客をつける努力をします(今はそうは客が来ないので在籍は少なく、同時に3人も4人も出勤していることがほとんどありませんから、そうする意味は薄くなってますが)。
今の時代に、こうやって顔を晒すのは残酷だという意見もあるでしょう。写真で指名できるようにすればいいではないかと。ところが、こうした方が格差が生じにくいのです。
かつての遊廓でも、店先で顔を見せる「張見世(はりみせ)」という方法がとられていたのですが、大正時代になると、人権侵害だというので、遊廓では張見世が禁止されて写真見世になります。写真見世自体は、明治末期から始まっていたのですが、この方法しか許されなくなり、これによって見栄えのいい娼妓ばかりに客がつくことになります。
張見世では、そこにいる女たちの中から選ぶしかないわけですが、写真があると、「なんだよ、あの別嬪さんはもう客がついたのかよ」とどこまでも比較されて、売れない妓は今まで以上に客がつかない。客がついている娼妓の写真を見せないようにしても、客に求められたら見せないわけにはいかない。
こうして稼げる娼妓と稼げない娼妓の格差が広がったばかりでなく、人気のある娼妓には客が殺到して健康を害することになってしまいました。
客としても、生で顔を見られない遊廓よりも、顔を見られる私娼に流れてしまい、遊廓の凋落に拍車がかかっていきます。人権の名のもとに営業妨害されたようなものです。
この辺の事情は鷲尾浩著『風俗問題』(冬夏社・大正10年)に詳しく出ています。この本は「人権を名目にした遊廓に対する締め付けはむしろ女たちの生活を苦しくさせるのであって、遊廓を残した上で労働環境の向上を目指すべきであり、社会の改革をするしか根本的な解決にはならない」という姿勢が貫かれている好著です。のちに再度登場します。
東京ではあまりないのですが、地方都市の風俗店に取材を申し込むと、「足並が乱れるから」と取材を断られることがあります。一人の女の子が雑誌に出て人気が出てしまうと、他の女の子らがむくれる。店に客が集まれば、結果、全員が得をするのですが、それを皆にわからせるのが面倒で、一人をクローズアップするタイプの取材は断るのです。
それでも今の時代は、人材を多数集めて、その中から人気のある子ややる気のある子を選別し、そうじゃない子は切り捨てていくという考え方の店もあって(特に水商売では)、そのために競争を煽るというやり方も成立するのですが、遊廓では一人の人材を確保するのに多大な手間や金がかかりますから、「人気がないのは切り捨て」なんて考えはでてきにくい。
まして共同生活をするとあれば、競争心よりも協調性を優先するしかなく、店側はそれを教え込むってものです。
それを踏まえれば、原作にある鴇手のセリフは納得しやすいのに対して、女同士の嫉妬や諍いをからめて進行していくドラマ「吉原炎上」はいかにも浅はかです。とくにドラマでは大店という設定になっているのですから、ましてあのような殺伐とした雰囲気なのは不自然です。
とは言え、鴇手が協調性を教え込もうとしたのは、そうしないと決まっていがみ合いが始まるためと言えなくもなくて、ドラマの夕凪楼は、教育が行き届かない杜撰な店だったということで、ここは納得するとしましょう。実話を綴った原作に、そのような創作を加えることにはどうしても抵抗がありますので、納得できないですけど。(続く)
「吉原炎上」のウソ 6/鴇手の教え
前回書いた、ドラマにおける「お職」という言葉の誤用は、女同士の争い、嫉妬を盛り込むためのものかもしれません。
ドラマでは、妓夫らがいるところで、娼妓同士が「客をとった」などと大声で怒鳴り合ったり、いがみ合ったりするシーンか何度か出てきます。このような女同士の争いがドラマを進行させる重要な柱になっていて、それなしでは成立しない話になっていると言っていいでしょう。
しかし、原作ではそのような話は一切出ていません。こんな話が出てこないだけでなく、娼妓たちがいかに心優しい人たちであるかを書き、娼妓たちもお内儀さんも親切であったことを記述しています。
とりわけ角海老の娼妓たちはそれまでの中米とはまったく違う雰囲気で、威厳があったとしています。ドラマのような品のない女たちではないのです。今の時代の人間が、自分を基準にして作り上げられるキャラの限界というところでしょう。
そりゃ人気がなければ、人気のある妓を羨んだかもしれないですし、人間ですからケンカをすることもあったかもしれません(今我々が感じている「嫉妬」という感情自体、近代的なものとも思われ、この感情を明治の人たちが広く共有していたのかどうかについても疑問はありますけど)。
しかし、遊廓の制度からして、ドラマにあるようなことが実際にあったとは考えにくい。ドラマの脚本家は、遊廓を現代のキャバクラと重ね過ぎではなかろうか。あるいは、戦後の赤線とそれ以前の遊廓とを混同しているのではなかろうか。
初期の吉原では、一回こっきりの遊びはできず、決まった遊女がいるのに、他の店に遊びに行ったことがわかると、武士でさえも制裁を加えられました。遊女側から拒否することもでき、今で言えば愛人に近い存在だったわけです。
明治以降はそこまでのことはないにせよ、それでも大店では、それ相応の手続きなしで、同じ店の中で相手をする娼妓をそうやすやすと変えることはできなかったはずです。赤線時代でさえも、こういう客は軽んじられたくらいで。
「吉原細見」で小店とされていた原作の中米でも、客の取り合いで露骨ないがみ合いがあったとは思えません。時代を経るにしたがって、遊廓のしきたりは崩れていきますから、そのために時代を20年ずらしたのかと思ったりもしますが、ドラマでは大店という設定になっているのですから、明治末でも、そういう客がいたら、「お客さん、バカにしちゃいけませんよ」と店の人が注意したのではなかろうか。原作に出てくるように、角海老は、伊藤博文が遊びに来るような店だったのですから。
とは言え、金を物を言わせて、相手を取り替える客がいなかったわけではないでしょうから、これはいいとしても、果たして、娼妓同士がそうも露骨な喧嘩をしたり、足を引っ張り合うようなことがあったのかどうか。
ドラマでは、娼妓たちの足の引っ張り合いが伏線になって、主人公の久野は悲しみのどん底に陥れられるということになっています。原作にないストーリーをスムーズに展開するためにやむを得ない設定であったのだろうとは思うのですが、この先の展開自体が原作にはなく、なおかつあり得ないものなのです(これについてはもっと先にやります)。
原作にはこのようなセリフが出ています。
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人気のある流行の花魁には、
「あんた器量良しだからもてるけど、自分がもてているときは、他の花魁は振られているの。だから、花魁は少しもてて振られもしないのが一番よ」
などと、分かったようなことを言ったかと思うと、暇なお茶引き花魁には、
「自分の不器量なんて、けっして思っちゃいけない。もてようとテレテレするから振られるの。今夜はひとつ振られてみようとツンとしてごらん、お客なんて口説いても口説けないようなのを口説きたがるものなのよ」
と真顔で説いたりもする。
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これは中米にいた松という鴇手(やりて)の言葉です。「鴇手」というのは、女たちの身の回りの世話や教育をしたり、客の接待をする中年以上の女のことで。「やり手婆」などとも言われますが、必ずしも老年ではありません。女たちを管理、監視するとともに、皆が稼げるように知恵を与え、励まして采配するのも鴇手の仕事です。
仮に娼妓同士のいがみあいが始まったら、必ずや鴇手が介入したでしょう。しばしばフィクションでは鴇手が現実以上に意地が悪く、絶対的な権力をもっていたように描かれます。そういう存在もいたでしょうけど、であるならば、喧嘩をした娼妓たちに制裁を加えたはずです。
都合がよすぎるんですよね。ある時には、今のキャバクラのように、女たちがいがみ合い、足を引っ張り合い、皆がいるところで怒鳴り合い、つかみ合う。そんなことを繰り返しできるくらいに自由な環境にあったことを描写しながら、ある局面では楼主や鴇手が冷酷無比に制裁を加え、暴力をふるう。「いったいどっちなんだ」って話です。
この話は次回も続きます。
「吉原炎上」のウソ 5/「花魁」と「お職」
原作でも、ドラマでも、主人公の久野は「花魁道中」をやっています。これはもともと揚屋(あげや)と呼ばれる茶屋が機能していた時代に日常的に行われていたものです。
客は揚屋に来て、そこに正装した遊女たちが出かけていって客と会います。これが本来の花魁道中であり、妓楼によってもスタイルが違ってました。
やがてこれが形骸化して、妓楼や女たちの見栄と、人集めのための見世物として行われていくようになります。とくに明治以降は、吉原を代表する店の、店を代表する売れっ子が担っていきます。それを久野がやったのですから、吉原の頂点とも言えるような存在だったわけです。
ただし、原作にある明治25年の花魁道中についての記録が見つかりません。明治以降、花魁道中は数えるほどしか行われておらず、わかった範囲で言えば、明治3年に行われてから、明治21年までは行われていません。この明治21年3月に1週間ほど行われた花魁道中は、久々の復活とあって、立錐の余地がないほどに人が集まったそうです。
この翌年にも花魁道中が行われています。この2回の花魁道中をやったのはいずれも角海老の娼妓です。
この時点で、久野は中米にまだいたはずですから、久野の前に、角海老のお職だった娼妓が花魁道中をやったのだと思われます。
この次の花魁道中は明治28年になってしまい、これは彦太郎という妓楼の娼妓がやっています。すでに久野は吉原にはいませんので、これらの花魁道中と久野は無関係だとしか思えません。
どこかで勘違いが生じたのかもしれない。時代を20年ずらしているテレビドラマの方ははなっからあり得ない話になってしまっていますから、検討する意味さえないわけですが。
その真偽はともあれ、「花魁道中」の「花魁」はランクの高い遊女のことを意味します。この「遊女」というのは、ランクを問わず、遊廓で売春をしていた女たちを意味します。これ以外に「遊妓」「妓女」「妓郎」といった言葉もよく使用されています。
時代によって意味がずれますが、江戸において、「遊女」は遊廓の女たち一般を意味していて、時に岡場所の女たちを含むこともあります。今で言えば、「娼婦」「売春婦」といった言葉と同じです。
この言葉は太平洋戦争後に赤線で働く女たちを指す言葉として公的に使用されている例があります。つまり街娼ではなく、娼家で働く女たちのことです。しかし、稀な用法であり、明治以降に使用される場合は、なにかしらの「風情」「興趣」を込めた、いわば文学的な用語と言えそうです。
ドラマでも原作でも、「遊女」という言葉は出てこず、「花魁(おいらん)」という名称を統一して使用しています。これはもともとランクの高い遊女のことです。
対して「女郎」という言葉が蔑称として出てきますが、遊女と同じ意味合いの言葉で、もともとは蔑称ではありません。蔑称として使われるようになったのは、売春する女たちへの蔑視が広がった近代になってからのことでしょう。
これらの言葉はいずれも江戸時代に始まったものであり、明治以降、公娼制度が廃止されるまでは、もっぱら「娼妓(しょうぎ)」という言葉が使用されます。これも江戸時代からの言葉ですが、明治以降は公的な用語です。芸者は芸妓で、両者を合わせて「芸娼妓」と言います。
ところが、原作やドラマでは、「花魁」を広く娼妓と同じ意味で使用しています。このように、明治以降、娼妓と同じ意味で「花魁」という言葉が使われたのかどうか気になって調べてみたのですが、「花魁」の使用法には大きく二種あったようです。
江戸時代の用法を踏襲して大店の娼妓のみを「花魁」としているものと、「吉原炎上」の原作やドラマと同様、娼妓と同じ意味で使用しているものです。「娼妓」は公的な用語でもあったので、いくらか堅い印象があって、それを避けて、趣のある名称として「花魁」が重用されたのでしょう。
前に出てきた宮武外骨編『売春婦異名集』(成光館出版・大正15年)にも【「おいらん」の名称は下落して、明治時代には中店以下第三流の娼妓をも「おいらん」と呼ぶに至れり】と出てました。
「花魁」は解決です。
しかし、ドラマでの「お職」という言葉の使われ方がおかしい。この言葉は、もともと「太夫(「たゆう」「たいふ」のどちらでも間違いではないが、「たゆう」の方が一般的)職」の「職」から来たものです。「太夫」は遊女のランクを示す言葉で、最上級の遊女が太夫です。「高尾太夫」「吉野太夫」など、名のある江戸の遊女たちに「太夫」がつけられているのはそのためです。
遊廓の初期、「お職」は役付の名称なのですが、やがては妓楼の中で客数ないしは売り上げがもっともいい遊女を指す言葉となります。つまり、ナンバーワンであり、お職を続けることを「お職を張る」と言い、お職の名前が掲示されたり、「細見」で大きく名前を出されたりしました。
ところが、ドラマでは「これからお前がお職だ」と楼主が命じるシーンが出てきて、役職のようなものとして扱ってます。
明治時代には言葉も崩れてきますが、私の調べた範囲で、明治時代に、役職として使用しているものは見当たらず、原作でも、あくまでナンバーワンの意味で使用しています。ドラマのこのシーンは、お職の古い用法を誤解したのではなろうか。
あるいは、ドラマを進行させるために、意図的な誤用をした可能性もあります。この事情は次回。