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「吉原炎上」のウソ 10/遊女の避妊

言葉の用法や門の形なんてものは、「時代考証が甘い」という話に過ぎないでしょう。ここまで書いておいてナニですが、私自身、たいした話ではないと思ったりします。ドラマ「吉原炎上」に対する批判は、これ以降が本番です。

「吉原炎上」の原作にも、悲しい話はいくつか出てきます。そのひとつが堕胎です。

ドラマの中で、娼妓の一人が子どものを埋めた土盛りを示すところがあります。はっきり言っているわけではないのですが、子どもを出産して間引いた(殺した)ことを示唆しているようです。ちょっと待て。明治の遊廓で、そんなことがあり得るのか? あるいは江戸時代でさえ、そんなことがあったのか?

もし間引いた子ではないのだとすると、一体誰の墓でしょうか。堕胎した水子の墓なのでしょうか。

そのことを論じる前に、そもそもコンドームが普及していなかった時代、また、フェラでフィニッシュなんてことのなかった時代、娼妓たちはどのように避妊していたのでしょうか。

私もこのことが気になって、以前、メルマガ「マッツ・ザ・ワールド」用に調べたことがありまして、その時にも出てきた方法が「吉原炎上」の原作に記述されています。詰め紙をしていたのです。膣の中に紙を詰めたんですね。

コンドームやビルような有効な避妊方法が普及している現代から見れば、「そんなことで避妊ができるわけではないだろ」と思うところですね。もちろん、完全な避妊方法ではなかったのですが、精液が直接子宮内に入ることは防げるのですし、膣内に残る精液の何割かは紙が吸収しますから、一定の効果はありました。

また、原作には出てないですが、事が済んだらすぐに洗浄していました。性病対策であり、避妊のためです。事が終わったあとで、そのまま互いに抱き合って余韻を楽しむなんてことはなかったわけです。

これまた「そんなことで避妊できるのか」という話ですけど、膣内に残った精液を洗い流すことができれば、ある程度の効果が期待できます。

ヨーロッパのホテルでは、便器とは別にビデが設置されていることが今もあります。かつてはベッドのすぐ横にビデが設置されていることもあったらしい。洗浄は早ければ早いほどいいですから。

そのくらい洗浄は広く浸透していたわけですが、日本では一般的ではなく、この方法を取り入れていたのは娼婦たちくらいでしょう。

日本で一般的ではなかったのは、水道の普及が遅れ、井戸から汲んだ水で洗浄するのが容易ではなかったことが理由になっていたのですが、遊廓では洗浄用の器具が設置されてました。古くは高いところにたらいのようなものを置いて、そこからホースで水を引き入れるようなものですが、明治時代にはポンプ状のものもあったようです。

もうひとつ、「気をやらない」という知恵がありました。「気をやる」というのは、イクということです。オルガスムスですね。感じると子宮が下がってきて、精子を迎え入れる態勢になりますので、この知恵にもいくらかの意味はあったろうと思います。あくまで「いくらか」ですが。

よく遊女の智恵として「気をやってはいけない」というものがあって、これは単なるプロ意識というのではなく、これ自体に避妊のための実利的な意味があり、なおかつ洗浄がおろそかになるという事情もあったわけです。

それぞれに「一定の効果」「ある程度の効果」「いくらかの効果」があって、それらを複数重ねることによって、妊娠する可能性を落とすことができていたわけです。また、性病の蔓延によって不妊になっているケースもあったことが想像できます。

遊女にとって妊娠するのは恥ずべきことだったわけですが、これは「やるべきことをやっていない」という裏付けのある話です。

それでも、完全に妊娠を避けることはできませんので、どうしたって妊娠する娼妓が出てきてしまいます。この場合は堕胎をしていました。野蛮とも言えますが、この時代なりに合理的な方法がとられていたのです。

詳しくは次回。

「吉原炎上」のウソ 9/吉原大門とデマ

もうひとつ時代考証として気になるのが大門です。今は交差点の名前でしかなく、その脇に何代目かの見返り柳が残っているだけですが、遊廓時代の吉原には門がありました。

大門は一般に「だいもん」と読み、他の遊廓においても「だいもん」と読むことが多いのですが、吉原や洲崎では「おおもん」です。原作には「だいもん」のルビがあって、編集者がルビをつけた際に間違えたのでしょう。

で、ドラマに出てくる大門の形は間違っているのではないか。吉原大門は、江戸時代は木造の門だったのですが、明治4年の火災で焼失、明治14年に鉄の門に建て替えられます。この鉄の門には吉原の常連だった福地桜痴の書による「春夢正濃満街櫻雲」と「秋信先通両行燈影」という文字が彫られていました(漢詩の作者は永瀬正吉)。絵や写真の門がいつのものなのかを同定するためには、門を見ればある程度のことがわかります。

この門は関東大震災によって失われてしまうのですが、この時点では、ドラマに出て来る、像があるアーチがつけられていました。震災で焼けて溶けたアーチの写真も残っています。

つまり、門はそのままで、ある段階で、上にアーチが加えられていたのです。明治20年が舞台の原作に描かれた門ではアーチはなく、問題はいつこの形になったのかです。

吉原大門の変遷については以前調べたことがあって、その時は十分には調べ切れず、はっきりとはわからなかったのですが、改めて調べてみたところ、明治36年刊の葛城天華・古沢古堂著『吉原遊廓の裏面』(大学館)に大門の写真が出ていて、これにはアーチがありません。

この写真を撮った時点から明治40年までにつけられたのでない限り、あのアーチが加えられたのは、明治44年の大火の際ではないかと思われます。

「間違っている」と言えるほどの自信はなく、これについては、また何か資料を見つけたら報告することにしますが、なんにせよ、明治以降の吉原大門には扉などなく、単に柱があるだけか、アーチがあるだけでした。扉があったのは江戸時代のことです。

大門は閉じようにも閉じられなかったにもかかわらず、関東大震災の時に、遊廓に反対する婦人運動家たちが「女たちが逃げられないように門を閉じた」というデマを流していて、当時、激烈な批判を浴びています。

批判されるのは当然です。多数の娼妓たち、あるいはそれ以外の人たちが亡くなったことに乗じて、デマまで流して遊廓を批判したわけですから。震災時のデマは朝鮮人に関するものだけではなかったのです。

今もなお、調べもしないで、こういったデマを信じ、そればかりか、デマをなお垂れ流している人たちがいます。呆れたものです。「売春を否定するためにはデマも流す」という人たちにはくれぐれもお気をつけください。

ドラマでも、テレ朝のサイトでも、吉原に門はひとつしかなかったと説明されています(いつの間にか、「吉原炎上」のサイトが削除されていました。公開期間を過ぎただけでしょうけど、ことによると私のせいか?)。しかし、吉原には七カ所に非常門がありました。非常門は通常閉じられていましたが、災害の際には逃げるために開かれますし、祭りの際にも開放されます。原作にもそう記述されています。

廓外に逃がすことによって、そのまま逃亡するリスクを楼主たちが恐れていなかったわけではないのですが、関東大震災の時に、逃げられることを心配しつつも、どのように女たちを逃がしたのかを雑誌で語っている楼主がいますし、関東大震災の証言集の類いを見ても、逃げ惑う娼妓たちを目撃した人たちも多数います。

わざわざ資料を調べるまでもなく、こんなことは、ちょっと想像力を働かせればわかることです。女たちは楼主から借金をしているのですから、死んでしまったら楼主は大損です。契約上、娼妓が亡くなった場合、残った借金は、親や連帯保証人が返済義務を負うことになっていたのですが、現実には取り立てることはなかったため、すべて楼主の損害です。今の時代にも、借金した本人が亡くなったら、「しょうがないか」と諦めることが多いでしょう。

金を返済させ、なおかつより金を儲けるためには、死なれたり、怪我をされたら、困るのは楼主なのです。

こういったことを考えもせず、「遊廓は悲惨であって欲しい」「売春をするような女たちはひどい目に遭わされて欲しい」という願望が、ありもしない扉を作り出してしまったわけです。

ドラマでは、そこまでのウソは言っておらず、主人公が火災から逃れるシーンが出てきます。誰も閉じ込めようとはしておらず、それどころか、妓夫太郎が助けに来ます。ここは、珍しく、このドラマが正しく歴史を踏まえている箇所です。

そこはいいとしても、このデマを流した人たちと、ドラマに流れる「遊廓の解釈」「売春の解釈」は完全に重なっているように見えます。そのことをこれ以降さらに確認していきます。(続く)

「吉原炎上」のウソ 8/妓楼の調度と娼妓の衣装

娼妓たちの生活ぶりについては、のちのち詳しくやっていくとして、原作に描かれている吉原の様子と、ドラマとはずいぶん印象が違います。

吉原の石版画や絵葉書にしばしば登場するものとして時計台があります。大門から見えるところにあったもので、当時の吉原を象徴するものと言っていいでしょう。

この時計台があったのは、久野がいた角海老であり、当然、原作ではこの時計台が描かれてますが、ドラマではこの時計台が出てきませんでした。見逃しただけかもしれないし、出て来なかったとしてもたまたまかもしれませんが、ここにも意図があるのではないかと疑えます。

吉原は、伝統や格式を重んじつつ、時代の先端であり続けた場所でもあります。江戸時代は、流行を発信する場所であり、流行を仕掛けるために吉原で商品を配るようなことまであったと言います。今で言えば女子高生にサンプルを配るようなものです。

衣装や化粧だけでなく、原作にある絵には、建物の入り口や廊下に洋風のランプがあります。洋風のバルコニーも描かれ、さらには主人公と客がベッドで寝ている絵まで出てきます。

明治20年代の吉原にこんなものが導入されていたことに、私自身、驚きました。このシリーズの冒頭に書いたように、原作はずいぶん前に読んでいたのですが、当時はそこまで読み込む能力がなかったので、今回読み直して驚いたのです。

こういった洋風の調度が導入されるのは、早くても明治44年の大火以降、あるいは関東大震災以降のことだとばかり思ってましたが、ベッド自体がまだ珍しかった時代には、豪華な演出として導入する意味があったのでしょう。

久野はこんなことまで娘に語り継ぎ、それを著者が聞いたのか、著者がどこかの資料で確認したものなのか不明ですが、ドラマと違って、原作は時代考証もしっかりしているので、実際にこういう調度品が使用されていたのでしょう。考えてみれば、時計台もハイカラな建造物ですから、内装や調度品もそれに揃えていてもおかしくはない。

久野が最初に入った中米でのこと。初日に周旋人に案内された際、廊下の窓に色ガラスがはめられていて、久野はそれが「ステンドグラス」というものだと教えられる描写があります。高価なものだったはずで、貧農の育ちではなく、士族の出であった久野が知らないものを吉原ではいち早く取り入れていたわけです。

ドラマではここから20年もあとの設定になっていますから、さらにモダンな外装、モダンな内装、モダンな調度品になっていたことが想像できます(明治末期になると、私娼に人気が集まって、それに対抗する意味で、あえて古さを演出する必要が出てきた可能性もありますが)。

すべてを忠実に再現すると、今の時代には奇異に見えてしまいかねないですし、なお多くの部屋は畳に布団だったでしょうから、ここはいいとして、どうもあのドラマは、時代をあとにずらしているにもかかわらず、積極的に古くささを打ち出そうとしているように思えます。今の時代と切り離すことで、あり得ない話のリアリティを出そうとしたのでしょうか。

原作のように、明治20年代であればわかるとして、また、伝統的な正装をする花魁道中の時はいいとして、娼妓たちの服装が古すぎるようにも思います。明治末期以降の娼妓の写真では黒紋付になっていることもあります。写真だけを見ると、芸妓なのか娼妓なのか、区別することは困難なのです。

ここは私も確信はないですが、明治末期には、正装する場合でも、江戸時代の花魁姿をすることはほとんどなくなっていたようで、明治末期には娼妓という職業に対する蔑視も強まりますから、「らしい」格好を避けるようになっていたのかもしれません。

「伝統を重んじる妓楼があったのだ」と言われれば、「ああ、そうですか」としか答えられないですけど。

なお、現在、黒紋付は既婚女性の正装になっていますが、かつては芸妓たちの座敷用の衣装でもあって、今もめでたい席や正月の座敷で、芸妓たちは黒紋付を着ます。地域差があるかもしれないですが、赤坂や神楽坂では、正月に芸妓たちが揃って黒紋付を着ている姿を見ることができます。

また、黒紋付は、江戸末期から大正くらいまでは広く一般に花嫁衣装でもあって、戦後になってもなお黒紋付が花嫁衣装だった地域もあるようです(昨今復活の兆しもあり)。今では日本の伝統のように見える「花嫁=白無垢」ですが、黒が駆逐されたのは、西洋の影響と思われます。白装束は今も死者の衣装であるように、日本での白はあの世の色という意味合いもあり、神の領域を示す色です。対して黒は派手な色、艶やかな色ですから、色の感覚は、実のところ、曖昧で、流動的なものだったりします。

結婚式の時に着た花嫁衣装を留袖に直して着たことから、黒紋付は既婚者の正装になり、花嫁が着なくなって以降は、あたかも中年の服装であるかのように見えるようになったんですね。

思い切り、話が横道に逸れてしまいました。(続く)

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松沢呉一のプロフィール

1958年生まれ

大学卒業後、メディア関係のいくつかの仕事を経てライターに。

当初は幅広くこなす何でも屋だったが、30代後半からは性をテーマにすることが増え、やがて風俗ライターに。
2005年、風俗ライターの肩書きを捨て、現在は単なるライター。
風俗ライター廃業をきっかけに有料メルマガ「マッツ・ザ・ワールド」をスタートさせ、毎日、1本から2本配信。
著書に『エロ街道をゆく』『ぐろぐろ』(ちくま文庫)、『風俗ゼミナール』(ポット出版)、『風俗お作法』(しょういん)、編著に『売る売らないはワタシが決める』(ポット出版)など多数。