遊郭
「吉原炎上」のウソ 17/小説『廓の子』
前回書いたように、ドラマ「吉原炎上」の原作である斎藤真一著『吉原炎上』で、主人公の久野は恋人の勇吉に会うために外出できています。廃娼運動の高まりによって、明治末になると、さらに規則は緩くなっていたはずですから、ドラマのように逃げ出す必要はなかったわけです。
ドラマの設定では、冷静に判断できる状態ではなく、あのような形で飛び出してしまったことは理解できますが、楼主の許可を得た場合に外出できたのであって、そうじゃなければ足抜けと見なされて追われます。つかまれば監禁されて、折檻を受けるようなこともあったようです。逆さ吊りして竹で叩くようなことをしたら体に傷が残りますから、食事を抜いて、手で叩くくらいのことでしょうが。
なのに、ドラマで、男たちは逃げる久野を見逃しているのですから、ワケがわからないです。ドラマのディレクターや脚本家を折檻しながら、「どういうこと?」と問いつめたい。
では、どうして外出の際に、女たちは逃げようとしなかったのでしょう。単独外出はなかなか許可されなかったのだとしても、花見や海水浴の時は逃げ出すチャンスです。しかし、逃げてもしょうがなかったし、ほとんどの女たちは逃げる気さえなかったと言っていい。
この辺の事情はなかなかわかりにくく、私が私の言葉でいくら説明したところで、「所詮、三流ライター、エロライターの言い分」と思われて、説得力というものがないので、ここで1冊の本を紹介します。実際、私は繰り返しこういう扱いを受けてますので。とりわけフェミニストだの人権派だのといった人たちから。肩書きでしか判断できない人たちってことです。
のちに「薔薇族」を出すことになる第二書房が昭和32年(1957)に出した加藤てい子著『廓の子』という本があります。著者は福井市の遊廓で育った人物で、地元で新聞記者となり、劇団員を経て小説家になっています。『廓の子』は、母が経営する妓楼が廃業するまでを描いた自伝的小説です。
この本はいくつかの短編小説をつなぎ合わせたもので、そのために長編小説としてのまとまりに欠くところがあるのですが、遊廓の女たちの生活を身近で見てきただけに、非常にリアルな内容です。
小説なりの脚色がなされ、まったくの創作が含まれている可能性もあります。だとしても、遊廓での日常は体験した人にしか書けないものだろうと判断できます。悲惨な話もたくさん出てくるのですが、そこに向き合う人々の心の動きや態度は、想像のみで描いた小説とは一線を画します。
数回あとで詳しく説明するように、明治の吉原と昭和の福井では、時代や場所が違うことを踏まえる必要はありますが、遊廓のことを知るためには大いに参考になる本です。古本で安く入手できますので、一読することをお勧めします。
遊廓の実情を描くために書かれたものではないのですが、以下、その部分のみをクローズアップしてみます。
太平洋戦争開始を機に、主人公つまり筆者の提案により家業は廃業し、このあと新聞記者をなろうとすることを仄めかして小説は終わっています。ここは現実通りでしょう。主人公は妓楼という稼業に反対していたわけです。その立場から書かれたものであることを確認しておきます。
この時点で主人公が何歳かもわからないのですが、仮に二十歳くらいだったとして、その間に、彼女の母が経営する妓楼では、4名の娼妓が亡くなっています。これが事実だとしたら、5年に1人ですから、一桁の娼妓しかいなかったと思われる小規模な妓楼としては非常に多いとは言えるのですが、「だから遊廓は悲惨」とは必ずしも言えないことまでが読み取れるように書かれています。そう意図したのでなく、これが現実ってことです。
では、その4人の死を見ていくことにしましょう。
1人目は主人公が子どもの頃の話で、客が無理心中を図って娼妓を匕首で殺しています。おそらくここは筆者自身、記憶があいまいで、かつ子どもだったために詳しい事情は教えられなかったのだと思われて、二人がどういう関係だったのかもよくわからないのですが、馴染み客が思い詰めたようです。彼女は死にたくて死んだのではなく、非難されるべきは妓楼ではなく客です。
すでに書いたように、遊廓の心中とされるものの中には、このような無理心中が多いものです。これは、遊廓の女たちは生きている価値がないと蔑視する人々たちが多数いることと関係しているでしょう。「こんな女たちは殺してもかまわない」と思わせる空気が社会にある。
2人目は歌子という娼妓です。遊廓に来る前から肺病を患っていたようで、喀血してしばらく休んでいたのですが、申し訳ないと思ったのか、借金が増えることを気にしてか、自ら働きだし、再度倒れて死亡。
ことさらに酷使されたわけでも、病気の手当をしてもらえなかったわけでもなく、彼女はこのように死ぬしかなかったとしか言いようがない。
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亜納は歌子の髪にそっと櫛を入れた。髪は枯草のように乾いてもつれていた。髪の先の生命の一滴までしぼりしぼって働かなければならなかったこの女の、救いのない生き方を想った。歌子の親元へ電報を打っても来ず、その親を待ちながら歌子は死んだ。歌子の好きだった玉チョコをみんなで買って枕元に供え、他人ばかりで葬られた。
「まるでのら猫の死んだのも同じね。のら猫だって親が泣きにくらい来るだろうに......」
「旅費がないんだよ、きたくたって......」
「おお、いやだいやだ。死ぬときも女郎だったなんて死にかたはいやだわ」
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ここにあるように、娼妓として死ぬことの哀れはあるにせよ、それ以上に、親族に看取られることなく、遺体さえ引き取ってもらえないことの哀れに娼妓たちは同情し、かつ自分の身の上を重ねています。
そんな義務などないにもかかわらず、ささやかながら葬儀をしてやったのは主人公の母親であり、酷薄なのは故郷の親族です。しかし、親族としても、東京に来るほどの金も、遺体を引き取るほどの金もない。誰にも怒りをぶつけようがない悲しみに娼妓たちは泣くしかなかった。
歌子は無縁仏として葬られたのでしょうが、このように、いわば親族に見捨てられて死んでいった娼妓たちがさまざまな遊廓にいました。これが遊廓を否定する人々によって、「遺体が寺に投げ入れられた」なんて話にフレームアップされて、妓楼を非難する根拠にされてしまう。問題がどこにあるのかを見据える能力のない人たちの妄想です。
『廓の子』の話は次回も続きます。
「吉原炎上」のウソ 16/娼妓の自由
ドラマ「吉原炎上」で、主人公の久野は、かつての恋人である勇吉が結婚して子どももいると聞いて、そのことを確認するために吉原から逃げ出すシーンが出てきます。
遊廓から逃亡することを「足抜け」と言います。この場合は逃げること自体が目的ではないので、「足抜け」とはちょっと違いますが、娼妓たちは遊廓の外に出られないため、久野も脱出するしかなかったというわけです。
その時、用心棒のような男たちは、「どうせ戻ってくる」と追いかけません。彼らの判断は正しく、久野はすぐに吉原に戻ってきてしまいます。
しかし、逃げたことも、男たちが追わなかったことも、久野が戻ってきたことも、すべておかしな話です。
一般に思われている遊廓では、女たちは身請けされるか、年季が来るまで外に出られず、足抜けしようとしたら、すぐに追われてひどく折檻されたはずです。それでも女たちは出たくて出たくてしかたがないということになっているのですから、久野もそのまま逃げればよかったではないですか。
ドラマでは、久野は元恋人が結婚して子どもがいることを確認、しかも元恋人にひどい言葉を投げつけられ、いわば自暴自棄になって吉原に戻ってきたという設定になっていますから、戻ってきたことの辻褄合わせはできているようですが、どうして男たちは追わなかったのか、さっぱりわかりません。
男たちは、久野がどうして逃げたのかを知っていたのだとしても、許可のない外出をこのように黙認したことは考えにくい。もし久野が戻ってこなかったり、ショックのあまり川に身を投げたりしたらどうするつもりだったのでしょう。
では、原作ではどうなっているのか。原作にはこんな話は一切出てきません。これもドラマの完全な創作なのです。
その代わり、原作では、最初に久野が入った中米で、「酉の市に行く」という理由で外出して、恋人である勇吉と落ち合っています。吉原遊廓のすぐ近くにある大鳥神社の酉の市ですが、単独の外出ができたわけです。
続く角海老では、肺病で亡くなった後輩・小花の三周忌に行くと行って許可をもらい、お内儀さんに「遅くなってもかまいやしないよ」と送り出されて一人で外出し、浅草で墓参りをしたあと、やはり勇吉と会っています。こっちが主たる目的です。
全然ドラマとは違いますね。もしかすると、こんなふうに娼妓が単独で外出して、男と落ち合えたこと自体に驚く人もいるかもしれません。「外に出られたのかよ」と。出られたのです。
単独外出ではないですが、久野は伊藤博文に気に入られ、柳橋の座敷に呼ばれてもいます。信頼できる客に気に入られれば、このようなこともそう珍しいことではなかったようで、以前読んだ古い雑誌には、娼妓が客と温泉旅行に行ったなんて話も出ていてました。今もソープランドの高級店では客と外出できることがあります。女の子によっては「すべてNG」「相手によってはOK」といったように、個人にもよるのですが、馴染み客の特権みたいなものです。この場合は、料金が発生しますので、店にとってはなんら損害はありません。
また、これも単独ではないですが、妓楼単位で休みをとって、花見や海水浴に行ったなどといった話もよく古い本には出ていますし、どこかで、花見をする娼妓たちの写真を見た記憶もあります。
これが遊廓の現実であり、ドラマとは全然違いますねえ。一般の人が思い込んでいる遊廓とも違いますねえ。
親族に不幸があった場合などはもちろん、信頼されている娼妓であれば、「酉の市に行く」といった理由でも外出が許可されていましたから、ひとたび遊廓に入ったら、身請けされるか、年季明けまでは一切外に出られなかったかのような記述はおおむね間違いです。あくまで「おおむね」であって、100%の間違いではないですが(これについてはそのうち書きます)。
外出できたことまでは記述しながら、常に遣り手が付き添って監視したなどと書いてあるものもよくあるのですが、東京に慣れていない娼妓の場合はこうせざるを得ません。なにしろ地理がまったくわからない。人力車の乗り方もわからない。吉原の近くの浅草あたりには悪い男たちもたくさんいて、道に迷っているうちたに、誘拐されないとも限らない。
だからこそ、上客が一緒であれば外出を許可したことはよくわかります。逃げる気があればこの時に逃げられますが、そんなことをする女たちはほとんどいなかったからこそ、これを許可したわけです。
「酉の市に行く」として久野が廓の外に出たのは、初見世以来初めてとあって、1年数ヶ月の間は外出しなかったことになります。外出許可を出すまでにこれだけの時間がかかったのは、やはり東京に慣れるまでの時間、あるいは逃亡の恐れがないと楼主や遣り手が見極めるまでの時間が必要だったということなのだと思われます。
もちろん、今の時代に考えれば、ひどい環境であったことに違いありません。遊廓内の移動ができたとは言え、月に一回くらいは浅草で映画や芝居くらい観たかったでしょうに。そこは私も異論はないのですが、だからといって歴史的事実をねじ曲げてはいけません。
次回、このことをある小説を素材にしてさらに考えてみることにします。
「吉原炎上」のウソ 15/張見世と籬
この連載は、隔週で更新のはずだったのですが、なぜか一週間で更新になる時もありました。サイトのリニューアルに伴って、今後は、私自身が更新作業をすることになって、週に一回の更新になります。曜日を決めてしまうと更新できない日がでてくるかもしれないので、曜日は決めないでおきます。
自分で更新するとなると、いろんなことをしたくなります。
さっそく画像を入れてみました。前に告知をしましたが、予定をちょっと遅れて、最新刊『エロスの原風景』が店頭に並んでいます。と言っても部数が少ないので、並んでいる書店はほんの一部です。アマゾンで購入した方が確実です。
この中にも遊廓の絵はがきについて書いてますので、興味のある方はご一読ください。
では、本題です。前回、「いかに当時の貧困層の生活が過酷だったのか」というフリを書いて終わりましたが、この話はもっと先にやります。その前に、どの程度娼妓には自由があったのかを考えてみましょう。
ドラマ「吉原炎上」でも出てくるように、娼妓たちは店先に出て、客は籬(まがき。格子のこと)越しに眺めて相手を物色します。「吉原炎上のウソ」の第7回に書いたように、これを「張見世(はりみせ)」と言います。
ドラマでは、お職は張見世をしないということになっていました。人気があれば、張見世に出て客を探す必要はなかったでしょうが、お職が張見世に出てはいけないという話は聞いたことがありません。原作にもこんな記述はありません。
店によってルールが違うこともありましょうけど、一般にどうだったかを説明しておきます。
現実の久野も、吉原生活の後半は張見世をしなかったはずですが、お職だったためではありません。すでに書いたように、ドラマと違い、久野は中店の中米から、大店である角海老に住み替えています。
大店の自信であり、格の高さを保つ意味もあって、江戸時代から明治に至るまで、大店では張見世をしていませんでした。「うちの女たちはいつも客がついていて、外に出てくるほど暇ではないですよ」「どこのどなたでも客になれるわけではないですよ」ということでしょう。
さらに、明治39年発行の『花街風俗志』(隆文館)によると、大店だけでなく、中店も張見世をしていなかったとあります。しかし、原作では、中米で久野は張見世をしていたことになっています。これはどういうことでしょう。
答えは、葛城天華・古沢古堂著『吉原遊廓の裏面』(大学堂・明治36年)に出てました。「『吉原炎上』のウソ」の4回目に書いたように、中米は、小店から大店に成り上がった店で、この本の段階では大店扱いになっています。にもかかわらず、中米は張見世を続けていた伝統破りの店だったのです。
ドラマは、「大店の娼妓たちが張見世をしなかったこと」を「お職が張見世をしなかったこと」と誤解したのではなかろうか。あるいはわかった上での創作か。あのドラマではこんな細かな時代考証をはなっからする気はなく、どうだっていいってことでしょうけど。
この籬を牢屋に見立てて、妓楼の中に閉じ込められていたかのように思っている人たちもよくいますが、籬は逃げられないようにしていたのでなく、顔がはっきり見えないようにする工夫でした。
すべてを明るい場所で見えるようにしてしまったら、見栄えのいい女たちばかりに客がついてしまいます。すでに述べたように、格差がつくことは、娼妓だけでなく、妓楼にとっても好ましいことではありません。それを避けるために籬越しの薄暗がりにいる女たちをぼんやりと見られるようにしていたわけです。明治以降は照明を当てることによって、きれいに見せる工夫をしていたようですが。
妓楼の格子は店のランクを示す看板のような役割も果たし、大店を別名「大籬」と呼びます。立派な籬だったわけです。ランクが下がるほどに籬はチャチになっていき、小店の小格子は、竹を並べただけのものでしたし、最末端の店では、籬自体がなかったようです。最末端の店では、客としても、顔を吟味する気もなく、女たちも、店の奥に楚々として鎮座するのでなく、路上に出て客を引いたので、籬は必要がない。
原作では、籬が細い線で描かれている絵も掲載されています。女の腕でも壊せるようなものだったわけです(大店の籬はそう簡単には壊れないものだったようですが)。
ドラマ「吉原炎上」で、籬は娼妓たちを監禁するためのものだったと言っていたわけではないのですが、一般的な誤解を解いてみました。
この籬の解釈が「女は監禁されていた」「外に出る自由もなかった」という方向でねじまげられているのは、世の中には「遊廓はできるだけ悲惨な場所であった」としたい人たちがいるからです。そうすれば批判がしやいすですから。
この人たちは、女たちが、建物から出ることさえできなかったと思っているのかもしれません。そんなバカなことはない。そのことは「吉原炎上」のドラマを見てさえもわかります。
主人公の久野は、廓内を歩き回って、人と会ったり、写真館に行ったりしています。廓内には、女たちが生活に必要なさまざまな店があって、そういった店に出かけていくことができましたし、週に一回の検黴では、医者が来てくれるわけではないので、検黴所まで出かけていきます。(続く)
「吉原炎上」のウソ 14/遊廓の心中
原作には出てこないのですが、ドラマでは娼妓が客と心中するシーンが出てきます。同じ妓楼から、肺病で死ぬのはいるわ、脳梅になるのはいるわ、心中するのはいるわで、どんだけイベント満載の妓楼かと。
原作に出てくる中米には46人もの娼妓がいたとあります。対してドラマの夕凪楼は、10人かそこらしかいないように見えます。なのに、こうも不幸が連発したのでは、経営は成り立たないです。
遊廓と言えば心中がつきものという先入観によるものでしょうが、ここもまたよく誤解されている点です。
確かに江戸時代には、近松門左衛門の影響もあって、遊女と客の心中が流行った時代があり、幕府も遊廓の経営者らも頭を悩ませていますが、近代になってからは、心中の内実が変わってきます。
日本で最初の心中研究書は大道和一著『情死の研究』(同文館・明治44年)とされています。著者は新聞記者で、全国の新聞記事から心中記事を集めてデータをとっています。
これによると、3年間で全国の新聞に掲載された心中事件は501件。そのうち、遊廓の心中は36件です(このデータは分類の基準がよくわからず、数字を読み取りにくいのですが)。平均すると、毎月全国どこかの遊廓で心中が1件あったことになりますから、遊廓には心中がつきものと言っても間違いではなさそうです。
事実、戦前の雑誌には、遊廓を舞台にした心中事件がよく出ています。ところが、よくよく読むと、心中ではなく、無理心中が多いのです。
何年か前に、吉原のソープ嬢が店で客に殺された事件がありました。あれも、犯人が自殺しようとして、その道づれにしたものです。結局、犯人は自殺できず、単なる殺人でしたが。
一人で死ぬのが怖い男はなぜかこういう職業の女たちを道づれにしたがります。「こんな女は生きている価値がない」とでも考えるのでしょうか。
磯村英一著『心中考』(講談社・昭和34年)には、遊廓における心中の分類が出ています。
第一は「なじみ心中」。馴染み客と娼妓の心中です。「約束を実現不可能にする事情が生じた場合に起こるもの」と著者は書いていますが、この事情のほとんどは男側にあります。身請けして夫婦になろうと約束したのに、男は事業に失敗して、実現不可能になったようなケースです。
第二は「道づれ心中」。客が熱を上げすぎた末の無理心中です。ドラマ「吉原炎上」でも、金がなくなった男が逆上するシーンが出てきましたが、ああいう男が女を逆恨みして無理心中をするわけです。
第三は「行きずり心中」。吉原のソープであった殺人事件のように、馴染みでもなんでもないのに、男の側に自殺しなければならない事情が生じたことによって起きるもので、これもまた道連れです。
つまり、第二、第三は無理心中という名の殺人であって、純然たる心中は第一のパターンみです。
第一のパターンに属するものでも、「同情心中」といったものがほとんどであり、『心中考』の著者が言うような「約束」など存在していないことも多いものです。
妻子ある男が遊ぶ金欲しさに使い込みをやり、それが発覚して会社を首になって、妻は実家に帰り、もはやにっちもさっちもいかない。娼妓は自分の責任でもあると同情して、心中をするといったようなものです。「同情心中」「つきそい心中」とでも言った方がいいかもしれない。
この時に、娼妓は「自分の身を儚んで」というところもあるのでしょうけど、このような同情心中は、娼妓以外でも見られます。大正時代や昭和初期には、女同士の心中がよくあって、中にはレズビアンと思われるようなものもあるのですが、単なる同情による「つきそい心中」もあって、昔の日本女性はどうしてああも同情しやすかったのかと頭を抱えます。ここにも日本人の死生観が関わっていそうです。
さて、ドラマに出てくる心中はどれなのかと言えば、どれでもありません。男は遊廓に死に来ていて、それに娼妓が合意してますから、あえて言うなら「同情心中」ですが、馴染みではないですから、磯村英一の分類にはない心中です。
いかに男に死ぬ事情があったところで、一晩で娼妓がそれに同情して心中するなどと考えるのはナイーブにもほどがあります。その娼妓はずっと死ぬことを考えていて、たまたまそこに死ぬきっかけになる客がやってきたってこともないとは言えないですが、そもそも娼妓単独の自殺は、ないわけではないにしても、心中ほどは聞かない。
そもそも原作にはないエピソードですから、遊廓の心中のありようを調べることもなく、「こうすれば遊廓は悲惨に見える」という思いつきで加えただけでしょう。テレビは、原作のあるドラマで次々と人を殺していればいいのですから、お気楽なものです。
原作を読んでも、知っている娼妓が亡くなったり、火災に遭ったり、好きな男が来なくなったりと、悲しい話はたくさん出てくるのですが、同時に楽しみも喜びもあって、生き甲斐も希望もありました。これは、久野が人気のあった一流娼妓だからであって、娼妓の誰もがそうだったわけではないのですが、「あんな環境にあったら、どんな女も死にたくなろう」などというのは、後世の人間の勝手な想像です。
そうも悲惨な話にしたいのであれば、原作など使用せず、すべて創作にすればよかったのです。出てくる人間はすべて卑しい人間ばかりで、娼妓同士は常にいがみあってつかみ合いの喧嘩をし、ちょっとしたことで楼主は暴力をふるい、娼妓たちを犯しまくり、すべての娼妓の体には梅毒の潰瘍ができ、最後は娼妓と客と店の人間が互いに刺し合って全員死亡するような物語にしていれば、私もフィクションとして楽しめたでしょう。
娼妓の中には、「貧しい家にいるよりも幸せ」と感じていたのもいました。なんという本だったのか忘れてしまいましたが、遊廓か赤線にいた著者が書いた本の中にも、「仕事が楽しくて楽しくて、家には帰りたくない」と語る女性が出てきます。
ワーキングプアやら派遣労働者の首切りが問題になっていますが、その比ではなかった貧困層の実情を知れば、そういったことを言う女たちの気持ちも十分に理解できます。(続く)