遊郭
「吉原炎上」のウソ 34/娼妓と女工 12
いくら金が稼げて、いいものを食えたとしても、娼妓になれば性病に感染するリスクがあり、肺病で中で死んでしまうかもしれない。だから、娼妓の方が悲惨という意見もあるかもしれません。
では、女工はどうだったのかと言えば、昭和30年代になってもなお機織りなどの繊維業に従事する女たちの健康状態が悪いことが問題になっています。狭い空間で、繊維のホコリが舞う環境で長時間働くこと自体が体に悪い。
本がどこかに行ってしまいましたが、これは丹後(京都北部)の伝統的な機織業を描いたものの中で指摘されていたことで、データも挙げられていたはずです。見つけたらまた紹介します。
その上、戦前であれば、栄養状態も悪く、労働時間はさらに長かったため、結核などの病気に感染するのが多く、だからこそ、大きな工場では医療面を充実させるしかなかったわけです。
しかし、治る見込みがなければ解雇です。前借の額も女工は少なかったため、使い捨てる感覚は工場の方がより強く、働けなくなった女工を抱えておくほどの温情もない。病気になっても放り出さず、死ぬまで面倒を見た遊廓と違って、その前に放り出すのが工場です。
急性の病気では放り出すこともできず、そのまま亡くなります。遊廓では心中という名の殺人で命を奪われることがありましたが、工場ではしばしば事故がありました。娼妓と違い、殴った痕が顔や体に残ったところで仕事に支障はないですから、日常的に暴力も行われていて、殴られて倒れ、機械に巻き込まれて亡くなった例が『女工哀史』に出ています。
工場には「死体室」という小屋が設置されていて、それを見た細井和喜蔵の感想は「地獄」。火葬するまでの安置所ですが、安置というより放置といった方がいい粗末な小屋なのです。末期の水も飲ませてもらえないまま「地獄」に置かれ、すぐさま焼き場に運ばれる。「伝染病の疑いがあったために焼いた」と言い訳をしながら遺族にお骨を渡しておしまい。そうすれば、暴行のあとだって消えてしまいます。
この点においても、最低限の葬儀をやって無縁仏として葬られる娼妓の方がずっとマシです。
この場合は遺族に弔慰金が支払われ、『女工哀史』には70円から150円という数字が出ています。給料の2ヶ月分から4ヶ月分といったところ。命が安かった時代です。これを支払わないために、先手を講じて病気になると解雇する方法がとられたことが容易に想像できます。
では、実際に、どのくらいの女工が亡くなっていたのでしょうか。『女工哀史』に転載された「大阪毎日新聞」の数字には、寄宿女工千人中、毎年13人平均が亡くなっているとあります。これは工場内、寄宿舎内で亡くなった人の数字で、発病後に解雇されて帰郷したのちに亡くなるのが毎年10人程度いたため、合わせて23人が死亡。
つまり、毎年2.3パーセントが亡くなっていることになります。同年齢女子の平均と比べると、3倍も多い。10代から20代にかけての女子の年間死亡率が0.7パーセントくらいあったのも驚きですが、昔は若いうちから人がよく死んだのです。こちらの数字を見ると、現在の数十倍亡くなっています。
http://www.ipss.go.jp/syoushika/tohkei/Popular/P_Detail2008.asp?fname=T05-07.html&title1=%87X%81D%8E%80%96S%81E%8E%F5%96%BD&title2=%95%5C%82T%81%7C%82V%81%40%90%AB%81C%94N%97%EE%81i%82T%8D%CE%8AK%8B%89%81j%95%CA%8E%80%96S%97%A6%81F1920%81%602006%94N
この時期の娼妓の死亡数が出ているものが見当たらないのですが、おそらく女工より少ない。そのことは女工の死因を見ればわかります。
死因の一位は結核で、工場在籍中の死亡者の4割が結核またはその疑いのある者、解雇帰郷者のうちの7割が結核またはその疑いのある者。娼妓は人に接する機会が多かったわけですが、栄養状態が違いますし、女工ほど肉体を酷使するわけではありませんから、結核の感染率、発症率は女工より娼妓の方がずっと少ないことが想像できます。
死ぬわけではないにせよ、これに次いで女工に多かったのが消化器系の病気と脚気と感冒。消化器の病気が多いのは、短時間の大食が原因だとあります。おかずがほとんどないまま、ご飯を大量にかきこむことでストレスの解消をしていたのでしょう。
他にいくつかの病気が書かれていますが、注目すべきは婦人病です。長時間の立ち仕事、過労、寒い寄宿舎などり理由と並べて、「手淫」を挙げています。
手淫の実施率は事実高かったらしく、糸を巻くための木管を寄宿舎に持ち帰って挿入していたという話を「嘘らしい話」(「嘘臭い話」の意味)として紹介していますが、「あながち作り話ではなく」として、上毛モスリン岐阜工場で里芋を挿入して抜けなくなって医者の世話になった女工の実話を挙げています。
オナニー害悪論が強かった時代ですから、これが婦人病の原因になったと考えたのでしょうが、衛生状態が悪い寄宿舎でさまざまな道具を使ってオナニーをすることで、雑菌が子宮や尿道に入り込むことがあったのかもしれない。
その原因はともあれ、婦人病によって不妊になるのもいて、その率は10パーセントに達し、女工の子どもの千人中32人は1年未満で亡くなるとあります。これは一般の死亡率の倍に相当。流産の率、子どもの異常も多いとされています。
すでに述べたように、娼妓は不妊になる率が高かったとも思われるのですが、数字はともかく、この点では女工も同じだったのです。
続きます。
「吉原炎上」のウソ 33/娼妓と女工 11
女工の薄給に対して、娼妓の収入はいくらくらいだったのでしょう。給料制の女工と違い、大店か小店か、人気があるのかないのかによって大きな差が生ずるため、標準的な数字を出すのが難しいのですが、遊興料からざっくりとした数字を計算してみるとしましょう。
前回見た女工の収入と合わせるため、大正末期から昭和初期の値段を調べると、吉原の小店で、泊まりは3円から4円、大店で7円から8円。物価が今の2千分の一として、大店で泊まって1万4千円から1万6千円ですから、今の時代に比べればうんと安い。ヘルスの50分コースの料金で、もっとも高いクラスの妓楼に泊まれたわけです。
戦前は、引き手茶屋で芸者や幇間を呼んで騒ぎ、それから妓楼に行くことも多く、娼妓とともに食べたり、飲んだりする客も多かったため、この何倍も使う客もいたわけですが、これらの出費は娼妓たちとは関係がありません。
遊廓の時代は、泊まりの前に「時間の遊び」を1人か2人とります。これを「ちょんの間」と呼びます。戦後は「ショート」と呼ばれるようになります。今の「ちょんの間」は業態の名称で、20分なり30分なりが単位になっていますが、当時は通常2時間が標準です。
これが小店で2円、大店で4円くらい。2時間の料金の倍を出せば泊まりができるのは料金設定がおかしな気もしますが、泊まりは、酒を飲んだり、食事をしたりしながら話をする時間が長く、また、睡眠時間もありますから、セックスを実労働とするなら、2時間も泊まりもさして変わらないとも言えます。
また、東京の遊廓ではどこもそうだったように、「廻し」と言われる方法がとられていて、泊まりでは複数の客をとり、一晩のうちに、2部屋、3部屋を娼妓は回ります。そのため、泊まりでは値段を安く抑えられたという事情もあります。
これ自体が過酷と見なされがちですが、30分、40分といった単位で相手をする今のピンサロ嬢、ヘルス嬢の方が過酷ではなかろうか。その分、今の方が稼げはしますが。
時間遊びを2本、泊まりを2本とれば、大店の娼妓は一晩で20円以上を売り上げたことになります。今で言えば4万円か5万円ですから、たいしたことはない。手取りではなく、売り上げですからね。
このうち、娼妓の取り分はいくらなのかですが、数字がマチマチです。明治時代の本に出ている明細によると、貸座敷と娼妓の取り分は半々ということになっています。
斎藤真一著『吉原炎上』にはこう出ています。
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揚代というのは一人の客から取るお金で、花魁たちは普通、その三分をもらえることになっていた。久野の場合、四十銭のうち十三銭をもらい、あとの十四銭が御内所に、残り十三銭のうち十銭が食費として差引かれて三銭が積立金となるのだと、お内儀さんから教えてもらっていた。
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上の数字より揚代がうんと安いのは時期が違うためです。
斎藤真一の『明治吉原細見記』では、娼妓の取り分は25パーセントになっていますし、ものによっては10パーセントとしているものもあって、こうも数字が違うのは、時代によって、あるいは遊廓によって、さらには店によって計算が違うこともありましょうが、どこまでを取り分とするのかの解釈の違いが大きい。とりわけ、できるだけ、娼妓は悲惨であって欲しく、それによって遊廓を批判した人たちは数字を低く解釈したがります。
貸座敷と娼妓が半々に分けたところで、そこから積み立て、食費などが引かれます。当然、贅沢をして、ツケで着物やかんざしを買ったりしていれば引かれる金は増えて、1割ももらえないこともあったでしょうが、だからと言って1割が取り分というのはおかしい。
今の時代でも、月に100万の収入を得ていながら、大半が借金の返済に回って、手元に金が残らないホステスや風俗嬢も中にはいるわけですが、だからといって、これらの仕事が「薄給」と言うのはおかしいのと一緒です。
本来娼妓がもらえる金額で言えば、いずれ戻ってくる積立金を入れて4割程度と言ってよさそうです。
ここでは40パーセントということにして、1日20円を稼げば、取り分は8円。休みなく働けば月で240円。今の時代よりもずっとご祝儀をはずむ客がいましたから、中には月に300円、400円といった額を手にする娼妓もいたかもしれませんが、そもそもこれだけの本数が続くような娼妓はほとんどいなかったでしょう。
小店となると、この半分。これらの数字はコンスタントに客がついた場合であって、標準的な娼妓であれば、さらにその半分。もっとも人気のない層だと、さらにその半分。そうなると、月に60円程度しか手元には残りません。物価が2千分の1だとすると12万円。
娼妓の場合は女工と違い、着物や化粧品、髪結いなどに金が出ていきますし、病気になって倒れたりすれば収入はなく、食費などが借金になります。あるいは間夫を作って貢いだりすれば、金はまったく残らないのですが、贅沢をしないで真面目に働けば、最底辺の娼妓でも、女工よりずっといい。しかも、前借の額も大きい。
だからこそ、見てくれのいい娘たちは女工から公娼、私娼へと流れたわけです。さもなければ、女工がわざわざ公娼、私娼を選択するはずがあるでしょうか。
続きます。
「吉原炎上」のウソ 32/娼妓と女工 10
『女工哀史』に出てくる女工たちや、著者である細井和喜蔵は、この本の中で繰り返し公娼や私娼よりも女工が悲惨であると強調しています。
たしかに「籠の鳥」であれば、少なくとも姿を見てもらえ、声を聞いてもらえます。愛情を注ぐ人たちもいます。
しかし、「豚小屋」の女工では、それも期待できず、労働する機械に徹するしかない。
細井和喜蔵は、前回引用した文章で、「美の享楽」の自由を比較していましたが、ここでの「美」を、見た目の美しさに限るなら、娼妓の美は、客に受けるための技術であって、「娼妓には美を追求しない自由はなかった」とも言えます。
しかし、これは衣食住のすべてにおいての快適さを意味していて、ほとんどの点で、女工の労働環境は、娼妓のそれに劣っていたと言っていい。そして、肝心の収入においても、女工は娼妓に劣っていました。
労働環境は悪くとも、住まいが「豚小屋」でも、それに見合った収入を得られればいい。娼妓たちは雀の涙ほどの金しか得られなかったと言われがちです。では、女工たちはどうだったのでしょうか。
当然、時代によっても、工場によっても違い、『女工哀史』にはいろいろな数字が出ていますが、ここでは、前借50円という数字を紹介しておきましょう。これは大正11年に「婦人公論」に掲載された細井和喜蔵の文章で取りあげられた亀戸の私娼の話で、彼女が最初に女工になった時の前借です。
すでに書いたように、何を基準にするのかによってその時代の物価は大きく違いますが、大正末期だと2千分の一くらいが妥当かと思われます。つまり、今で言えばたったの10万円です。これで3年間の契約が成立し、ここまで繰り返してきたような悲惨な生活を強いられます。周旋人は、交通費はまた別に出ると言っていて、これが本当だとしても、娼妓の前借の数分の一です。
続いて給料。これもいろいろな数字が出ていますが、明細までが出ている大正11年の数字を見てみましょう。給料は40円20銭。これに残業代84銭が加わります。計50円4銭。もっと安い金額も高い金額も出ていますから、これが標準的な数字ということになるのかもしれません。
ここから実家への送金、積み立て、賄い費、共済金などが天引きされて、女工には9円45銭が渡されています。中途で辞めると積み立ては支払われず、満期まで働かせるための仕組みだったわけですが、満期まで働けば戻ってくるものですし、親元への送金も収入のうちですから、約27円が本人に支払われると言ってよさそうです。手取り分は顔面の2割以下ですが、本来もらえる額は額面の半分強ということになります。
当時の40円の給料は、今で言えば8万円くらいです。当時は、学歴によって給料には大きな差があって、学歴のない層にとって、40円という給料は決して悪くはない。
前掲の週刊朝日編『値段の明治大正昭和風俗史』(朝日新聞社・昭和56年)によると、大正12年の大工の手間賃は一日3円53銭。月にすると90円台。その半分しかないとも言えますが、資格も技能もない若い女たちが得る金としては高い部類で、飲食店の店員や子守りをやっても、これほどはもらえなかったでしょう。だからこそ、人が集まったわけです。
男は軍隊という道もあったわけですが、軍隊に入るより工場の方がはるかにいい収入を得られました。軍隊にはメシが十分に食えるメリットはあったにしても。
そのため、女子の8割が周旋人によってかき集められたのに対して、男子は8割が志願して工場にやってきました。悲惨な女工より、男の方がもっと悲惨だったとも言えます。
見栄えのいい女子であれば、遊廓なり私娼なりで働くこともできましたが、それができないなら、あるいはそれがイヤなら、他に選択肢はほとんどなかったわけですが、工場で働いて、手元に残るのは今で言えば2万円くらい。
ここから罰金も厳しく取り立てられました。寄宿舎暮しですから、遅刻や無断欠席はないにしても、仕事上のミスでも罰金をとられます。自分の過失によるものならまだしも、原料の欠陥、機械の不調によって不合格品が出た場合でも罰金です。
細井和喜蔵によれば、8割の不合格品は女工によるものではなく、それでも、製品を作るのに使った2日分の給料が引かれ、名前が張り出されます。
運が悪いと、ほとんど現金を手にできなかった女工もいたでしょう。クラブで踊ることも、メールをやる必要も、化粧をする必要もなかったため、手元に現金がなくてもそう困りはしなかったでしょうが、工場主は贅沢三昧をし、会社はたんまり金を蓄えているわけで、これほどひどい搾取はない。
これらの企業は資本の蓄積をして巨大化し、今なお残っている各種企業の礎を作っていくわけですが、あれほどまでに批判された遊廓の経営者たちは、高い税金に喘いで廃業する店があとをたちませんでした。
さて、どっちが悪徳か。
続きます。
「吉原炎上」のウソ 31/娼妓と女工 9
そう簡単に外出ができなくても、遊廓ではたいていの商品が入手でき、着物やかんざしのような贅沢品も買えましたし、贔屓の客にねだれば買ってきてくれました。
客との恋愛は御法度ながら、身請けされれば、借金を返済してくれ、なお色をつけてもらえるため、楼主にとっても歓迎すべきことでしたから、相手が金持ちで、身請けの可能性がある限り、本気で好きになったところで咎められない。
対して女工たちは男と知り合う機会もない。工場内で男子工員たちが唯一の相手ですが、男子寄宿舎に女子は入れず、女子寄宿舎は男子は入れず、工場の外でデートをすることも難しい。それがバレると罰金です。
しかし、御法度なのは、末端の労働者同士の恋愛沙汰であり、工場長や組長といった役付は、やりたい放題。
目をつけた女工に言い寄り、断られると、重労働を強いるなどの嫌がらせをする。まさにセクハラです。さらには、自由に呼び出す権利があることをいいことに、個室に呼び出して半ば強引に関係する。
これに対する処罰規定もなく、細井和喜蔵自身が知る話として、数十人の女工に手を出し、そのうちの数人は妊娠し、それでも出世した例が書かれています。
これは稀な例では決してなく、広い範囲で行われていたことです。ただし、一方的に女工が被害者で、泣き寝入りするしかなかったという見方は正しくないかもしれない。これについては、もっとあとでまとめて説明します。
「『吉原炎上』のウソ 26/娼妓と女工 4」に、細井和喜蔵が娼妓と女工を比較した一文を引用しました。あれには続きがあります。
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公娼は自由が無いと言ふけれど、それは外面的な観察であって今すこし内面的に考へて見るがいい、彼女達は女としての生活欲望中最も大きな意味のある「美」の享楽はかなり自由であって、物質生活に事欠くやうな憂ひはない。女郎に於ては大抵な生活欲は満たされるけれど、労働婦人には殆ど此の自由がない。併し彼女達が如何にこの物質的「美」の享楽に憧れてゐるかは、女工出身の醜業婦が他の職業出身者より一ばん永続するてう(ママ)事でも証明される。序で乍ら浅草千束町と亀戸に於ける某銘酒屋店各一軒の私娼十人に対する勤め高を挙げれば左の通りだ。
仲居 一ヶ月
女優 二ヶ月半
町娘 六ヶ月
夫有ち 一ヶ月半
田舎出 七ヶ月(最高四年)
女工 二ヶ月半(最高五年)
公娼に於いては私娼の如く廃業が容易ではないと思ふが、此点は採聞する機会がなかったから詳しい事実は判らないが、併し大阪松島高砂町の某小楼で、抱妓七人のうち五人までが近藤、天満、和歌山、西の宮、泉尾等、何れも紡績女工出身者であった偶然には唯々おどろくのほかはなかった。
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千束と言えば今は吉原のソープ街がある住所ですが、当時の吉原は住所も吉原。当時の千束は浅草寄りの地域を指します。亀戸は戦後の赤線、戦前の私娼窟です。
銘酒店というのは私娼、つまりモグリの業者で、公娼における貸座敷のことです。私娼では、表向きは別業種になっていることが多く、その筆頭が銘酒屋だったため、銘酒屋は浅草周辺の私娼の代名詞です。
「女優」とありますが、これは映画女優ではなく、旅役者かレビューの女優でしょう。
公娼では、ほとんどの娼妓に前借があったため、自分の意思でやめることは難しい。対して私娼では、前借がある女たちばかりではなく、彼女たちはやめようと思えばやめられたため、ここにあるように、働いた期間に差が生じ、「どれだけ働いたか」によって、その前職がどの程度辛かったのかを計ることができるというのが細井和喜蔵の考えです。
大阪の松島は遊廓、つまり公娼です。そこの話を聞いているのですから、「採聞する機会がなかった」という表現は変ですが、松島遊廓は住所も松島町なので、高砂町の小楼というのはその周辺の私娼なのかもしれません。
最高年数は「前職が女工」です。女工を3年もやった人間であれば、私娼で5年は働ける。ここからそう簡単に女工の過酷さを決定することはできないだろうし、サンプルが10人では少なすぎますが、私がこれまで読んできた範囲でも、とりわけ私娼では、前職が女工である例は非常に多いものです。
女工の生活が過酷であればあるほど、「もっとおいしいものが食べたい」「寒さに凍えたくない」と考えるのは当然で、その時に、女工から脱したあとの仕事としては売春くらいしかない。そこにつけ込む周旋人たちもいて、甘言で女工になった女たちは、今度は甘言によって売春を始める。つまり、女工は、公娼・私娼の供給源になっていたとも言えます。
その逆コース、公娼や私娼から、女工になったケースもなくはないでしょうが、おそらくないに等しく、仮に女工になったところで続かない。そのくらいに両者の環境、待遇には差がありました。
また、こういった例を細井和喜蔵がわざわざ出していること自体に意味があります。細井和喜蔵は「醜業婦」という、売春否定をする人々が好む用語を使用しています。細井和喜蔵も売春を肯定する意図はさらさらなく、否定されるべき売春婦たちよりも、さらに女工は悲惨であったことを強調したかったのでしょうが、その存在を否定する人であっても、「娼婦はまだまし」と判断できていたわけです。
続きます。
「吉原炎上」のウソ 30/娼妓と女工 8
先週更新がなかったのは、忙しかったわけではなく、忘れていたわけでもなく、更新したはずなのに、更新されてませんでした。全然気づいていませんでした。誰にも指摘されず、読んでいる人が一人もいないのかも。まっ、いいけど。
もう一つ、今になって気づいたのですが、このブログのタイトル「遊廓松乃屋」のテキストデータがどこにもないのですね。そのために検索してもひっかかりません。タイトルなどをテキストで入れないと、検索で入ってこず、よってアクセスが増えないっす。今ここに書いたので、まっ、いいけど。
では、前回の続き。
客が通し物(出前のこと。「台の物」とも言う)を料理屋から頼むと、楼主が手数料を抜きます。これも「金の亡者」と楼主が批判される根拠となっているわけですが、そうせざるを得ない事情がありました。税金です。
今の飲食店、風俗店は、比較的脱税が容易な業種だったりするわけですが、当時、遊廓に対して税務署のチェックは非常に厳しく、売り上げに対して、通常の商家にかかる税金の数倍の税金がかかるため、すべての売り上げに、いちいち税金分を上乗せするしかなかったのです。もとの値段より手数料の方が高いこともあったようですが、とれるところからとっておかないと赤字になりかねなかったのでしょう。
対して工場ではそんな事情はないはずなのに、やっぱり値段を上乗せしていました。
工場内にも寄宿舎にも売店があって、日常雑貨は買えます。外出が容易ではないため、身の回りのものは売店で購入するしかありません。給金はしっかり工場が吸い上げるようになっていて、ここでも市価より高い値段がつけられていたのです。
女工が売店では買えないものが欲しい時は、塀から金の入った風呂敷を垂らして、外の店から買ってきてもらいますが、これは規則違反ですから、それを避けるため、また、無断で外に出ることを避けるために、塀の上には竹槍やガラスなどを立てていました。まさに監獄。
寄宿舎によっては島に建てられていたため、無断の外出などできるはずがなく、いよいよ工場内で買い物をするしかない。これでは監獄島です。
明治34年、大阪で地震があって、青蓮寺川の中洲に建てられた寄宿舎が倒壊。逃げることもできず、三百人もの死者が出ています(この年、大阪で大きな地震があった記録が見当たらず、著者の勘違いなのか、小さな地震にもかかわらず、大きな被害が出たのか)。遺体の回収にも手間取り、顔面が潰れていたため、個人を特定することも困難だったと言います。
当時はレンガを使用した建物が多く、また、都市部の工場では、土地代を浮かせるため、二階建て、三階建てになっていて、その中に重い機械を入れていたため、地震が来たらひとたまりもなく、機械とレンガの間に挟まって死亡したのが多かったことが推測できます。
通常、地震の被害は火災による割合が大きいのですが、工場では火が出る前に大量の犠牲者が出てしまうわけです。
「遊廓では門を閉じて逃げられなくした」というデマを今も語っている人たちがいるのに対して、門を閉じる必要もなく逃げられなかった女工たちについてはすっかり忘れられています。女工の哀れこそを感じないではいられません。
それでもこの工場の場合は慰霊塔が建てられただけまだましです。関東大震災で慰霊碑が建てられた吉原の娼妓なみの扱いはされたと言っていい。
しかし、明治25年に大阪の紡績工場が火災で焼けて、数百名が死傷した時には慰霊塔さえ建てられず、工場の創設者の銅像が建てられているだけだとあります。
『女工哀史』が雑誌「改造」に発表されたのは1924年(大正13年)で、その前年の9月には関東大震災がありました。執筆したのは、まさに関東大震災の年のことです。正確な数字まではわからないとしながら、細井和喜蔵はこのことにも触れていて、罹災した25の工場名を書き出し、死傷者の数はどんなに少なく見積もっても五千は下らないと書いています。
建物が崩れやすく、機械に潰されやすく、火が出やすく、扱っている繊維が燃えやすく、民家が密集した地域にあるなどの悪条件が揃っているため、この数字は決して大袈裟ではないでしょう。
また、「逃げられないようにしたために大量に焼け死んだ」という遊廓にまつわる都市伝説めいた話と同様のことが『女工哀史』には書かれています。
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富士紡小山工場の如きは一たん逃げ出した女工を「お前の体は金を出して買ってあるのだから自由な行動は執らせない。」とて(ママ)、厳重な監視づきで倒壊工場の炎々と燃えあがる工場脇の空地へ拘禁して置き、遂に非難時を失して延焼建物の為め四方から挟み焼きにして了った事実がある。
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ここは眉唾かもしれない。女工たちも、娼妓同様、逃げても仕方がなく、前借があれば、実家が困るだけです。事実、逃亡した女工が連れ返されたこともあり、逃げても無駄との嘆息も『女工哀史』には数々残されています。
この「小山」というのは東京品川の小山のことかと思いますが、当時も住宅が密集していたでしょうから、まだしも空きスペースのある工場内に留めておいた方が安全だと判断したのでしょう。
本所被服廠跡がよく知られるように、周辺の建物が焼けた場合、空き地に熱風が吹き込んで酸欠と熱で大量に死者を出します。震災直後には、そんな事情などわからず、こんなデマが出たのではなかろうか。
続きます。