遊郭
「吉原炎上」のウソ 38/娼妓と女工 16
『女工哀史』では、その環境の悲惨さを細井和喜蔵は強く批判しながら、「では、実際に女工たちはそれをどう感じていたのか」については、今ひとつわかりにくい。
しかし、よくよく読むと、著者のフィルターがかかっていない女工たちの心情の吐露をストレートに読み込むことができる箇所があります。
ここまで、『女工哀史』に出ている女工が歌っていた唄や数え唄の類いをいくつか紹介してきましたが、これらは細井和喜蔵が実際に耳にしたものを採録して、巻末の付録につけられているものです。作ったのは女工じゃないかもしれないですが、歌い継がれるってことは、シンクロするものがあるってことでしょう。
例えばこんな唄があります。
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ここの会社は女郎屋と同じ
顔で飯食ふ女郎ばかり
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おそらくこれは工場主や組合長といった役付の男らに媚びることで、楽な仕事を回してもらったり、外出を許可してもらうような女たちがいたことを皮肉ったのでしょう。
さらにはここまで見てきたように、妊娠することまでを狙った女たちがいたことまでを含めているのかもしれない。
この付録の中に、「生る屍の譜」という長い唄が出ています。この唄に、女工たちの意識がよく反映されています。ざっと見ていきましょう。
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うちが貧乏でそのために
幼い十二のその時に
株式会社に身を売られ
やすい勤めをして居けど
心の中まで濁らない
泥の中にも蓮の花
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今は「身を売る」というと、売春のことを意味しますが、この頃は、前借のことを意味していて、女工たちの多くも身を売っていました。「売春はそれ自体人身売買である」と信じる人たちが、ことさらに売春に対して、「身を売る」という言い方を今も使用していますが、かつてはあるゆる産業で、身売りは見られたわけです。
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こんな会社にゐるよりも
度胸定めて大垣の
一番列車に乗り込んで
行こか満州のはてまでも
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大垣は岐阜県大垣市のこと。今も繊維産業が盛んです。
当時満州には一攫千金を夢見る男たちが集まってました。また、各企業の支社もありましたから、独身男が多く、それを相手にする遊廓や私娼、カフェーもありました。それらで働く女たちを募集する広告も出ていて、勇気さえあれば工場から脱出することもできたのです。
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よいとこよいとこ思へども
来て見りゃ紡績火の出山
朝は四時半夜は六時
寄宿に帰ればはや七時、
電気が消えて寝る時は
浅黄の布団に木の枕
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労働時間13時間半。質素な寝具で寝る時だけはホッとする。
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織物会社といふとこは、
ぐるり煉瓦で屋根瓦
中の女工さん籠の鳥
三度の食事は鳥の餌さ
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娼妓を「籠の鳥」と呼ぶことは多くても、その食事を「鳥の餌」と呼んだのは見たことがありません。すでに説明したように、娼妓の食事はよかったわけですから。
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夜の夜中の一時頃
くろがね門を忍び出で、
脱け行くところは湊川
袂に小石を拾い込み
死ぬる覚悟をしたなけれど
死ねば会社の恥となる
帰れば親衆の恥となる
思えば涙が先に立つ。
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複数の人が書き足したのか、途中から神戸の工場の話になっていて、湊川は兵庫の湊川のことと思われます。
悲惨極まりない内容ですが、最後の一節で脱力します。
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今はこうして女工すれど
来年見やんせやや抱いて
意気な小意気な主さんと
新こん旅行をして見せる。
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「主さん」というのは単に「夫」という意味かもしれないのですが、ここでは工場主のことなのではなかろうか。そう考えると、新婚旅行の際に、子どもを抱いている意味も理解できます。子を孕めばこっちのものってことでしょう。
だとすると、この唄で繰り返される悲惨さは、女工のしたたかさを表現した最後のオチに向けたものだとも思え、シャレの唄だったとしても、オチこそがより現実に近い女工の意識だったのかもしれない。
自分を搾取している張本人なのに、子どもを抱いて結婚しようとしているのだとすると理不尽ですが、細井和喜蔵が、女工たちが組合運動に無関心であることを嘆いているように、自分の置かれた立場を嘆き悲しむことはあっても、それを経営者に対する怒りに転じることはあまりなかったのだと思われます。だから、自殺しようとする時でさえも会社の事情を考えてしまいます。
嘆き悲しむ自分の境遇は自分自身が上昇することで解消されると信じていて、それが工場主の子を孕み、結婚するか、妾になることでした。これは組坂松史が書いていたこととも合致します。
この発想のもとで、工場主に迫られること、妊娠することさえも幸せへの途ととらえていたのでしょう。
それだけ視野が狭かったということだったりするし、工場主と闘うなんて発想が出てきようもなかった時代ということなのですが、現実はこんなものだったりします。
「当事者が受け入れていることを、第三者が否定することは可能か」というテーマは、古くて新しい問題ですが、その前に「事実として、当事者たちがどう感じていたか」を確認することが何より必要かと思います。
続きます。
「吉原炎上」のウソ 37/娼妓と女工 15
売春は売春をする側にとっても娯楽であり得る。
ここまで説明してきたように、組坂松史は、『女の地図』掲載「五十円織姫の性態」で、あるいはそれ以外のルポでも、このことを的確に描いていて、そこに私は感心し、組坂松史の書くことが信用するに足ると感じます。
戦前であれ、戦後であれ、女工たちは、日々の生活から逃れるように売春をしていて、そうしないではいられないくらいに給金が少なかったのですし、セックスが娯楽になるくらいに退屈な生活だったわけです。
だから、工場での契約機関を終えると、私娼で働くのが少なくなく、時間を見つけては仕事の合間に売春するのも出てきてしまう。
自分の頑迷な思い込みを現実に投影しようとするのでなく、虚心に現実から学ぶ姿勢をもって、丹念に取材をしていけば、こういう側面に気づかざるを得ない。
私も風俗産業のことをよくわかっていないかった頃は、「女たちは金のためにイヤイヤ風俗嬢をやっている」と思っていたものです。
さらに若い頃、それこそ10代の「子ども」の頃だったら、「女たちが自らの意思で望んでそんなことをやるはずがない」とさえ思っていたかもしれない。
そういう思い込みは、現実を見ることであっさり壊れていくわけですが、壊れる機会がなかった人たちの中には、子どもじみた考えを抱えたまま大人になって、その頑迷な思い込みをもとに、「売春をする女たちはことごとく強制されている」と発展させていくわけです。これを妄想と言わず、なんと言いましょう。
「てぃんくる」の連載(ネットではなく、雑誌の「てんくる」でやっている連載)に詳しく書きましたが、先日、6年前に風俗嬢を辞めた既婚女性から電話がありました。
彼女も当初は金のためにやむなく始めたのですが、やがては仕事の楽しさに気づき、風俗嬢という仕事がなくてはならないものになっていきます。
ところが、6年前、妊娠したために引退。それ以降も時々連絡をくれて、「また戻りたい」と言っていました。
子どもの手がかからなくなったので、このほど、念願がかなって復活。電話はそれを報告するものでした。
「あの頃が楽しくて楽しくて忘れられなかった」と彼女は言います。
この不況で、夫は労働時間が増えてはいても、収入が減ったわけではなく、彼女が風俗嬢として復活したのは、経済的な事情ではなく、娯楽のため、生きがいのためです。妻や母として生きるだけでは、それを十分には得られない。
もちろん、仕事である以上、金も大事ではありましょうが、風俗店も今は暇で、以前のように稼げるわけではない。それでも彼女は本当に嬉しそうです。
今の時代であれば、こういう存在は珍しくもなく、こういった女たちの話をいくらでも聞いていますから、なんら違和感なく受け入れることができます。
しかし、古い時代においても、そういう層がいたことはなかなかわかりにくい。今も生きている人たちが多数いても、本人たちの話を聞く機会はなかなかないですし。
今現在の風俗嬢たちの話を聞くようになって以降も、私は「今の時代は好きでやっているのが少なくない。しかし、昔の人たちはことごとくがイヤイヤやっていた」という見方をしてしまいがちでしたが、古い資料に目を通していくと、いつの時代でも、そういう層がいることがわかってきます。
それが見えてくる資料はさまざまありますので、また機会があったら紹介していくことにして、そろそろ話を『女工哀史』に戻します。
細井和喜蔵によると、全国の女工数は300万人。その多くは、『女工哀史』に描かれたような環境で生活していたわけですが、遊廓の労働内容が売春であったことの宗教的、道徳的、主観的な評価を除いて、女工と娼妓を比較した時に、いったいどちらが悲惨であったでしょうか。
今の時代の価値観からすれば、「どっちも悲惨」というのが正しいわけですが、あえて比較をするなら、細井和喜蔵が書くように、女工の方が悲惨だとすることに多くの人は異論はないでしょう。
「どっちも悲惨であり、比べようがない」ということでもいいのですが、だとしても、「300万人の悲惨」に触れずして、その数百分の1しかいなかった娼妓をことさらに取りあげるのはフェアではない。
ところが、現にそうしてきた人たちがたくさんいます。こういう人たちは戦前からいて、だからこそ、細井和喜蔵は、繰り返し娼妓の話を比較として出し、公娼制度に反対する人々を批判的に取りあげたとも思えます。「問題にすべきは、そっちじゃなくて、こっちだろ」「そっちも問題かもしれないが、喫緊の問題としてはこっちが先だろ」と。
続きます。
「吉原炎上」のウソ 36/娼妓と女工 14
前回取りあげた組坂松史著『女の地図』に掲載された「五十円織姫の性態」の話を続けます。
筆者が秩父を取材しようと思い立ったのは、たまたま秩父の温泉旅館に泊まった時に、隣室に来ていた地元の小学校校長に五十円で売春する「秩父織姫」の話を聞いたのがきっかけです。
その校長は教え子たちが売春する現実に恥と怒りを覚えて、物書きである筆者に訴えかけたわけです。
大正初年、秩父鉄道が開通し、人の出入りが容易になり、この年から、秩父織姫売春が始まったと地元の古老が語っています。仕入れにきた商人に「三銭売春」を持ちかけたヤスという処女の織姫がいました。三銭というのは今で言えば600円くらいです。
秩父の工場の多くは、ハタバと呼ばれる小規模な機織工場です。近代的な工場と違い、管理は比較的ゆるい。
また、秩父あたりだと、都市部の工場とは違って、女たちは地元の出身です。「田舎に逃げ帰る」という発想がなく、「都会に出る」という発想もなく、一生その地で死んでいく。そういった女たちを使う小さな工場では、まだしも人間的な扱いもされていたようです。
前借で縛らなくとも、女たちには働く場所がない。彼女たちが結婚する相手も地元の男たちであり、工場主たちは、そういった男たちと女工の交際にも寛大でした。結婚しても引き続き働く女たちが多かったためです。
そのため、外出がゆるいハタバが多く、それをいいことに、売春するのが出てきたわけです。
ヤスは「三銭織姫」と囃し立てられ、彼女のことを好きだった男もこの地を去り、彼女は父なし子を3人産んで、戦時中に51、2歳で亡くなったそうです。
しかし、彼女は始まりでしかなく、彼女のように安価で売春する女たちが続き、それが戦後いよいよ盛んになったというのです。しかも、この頃の50円は今の500円から1000円くらい。ヤスの頃の三銭と変わらない。
この話を聞いた筆者は、改めて秩父に行って取材をし、それが事実であることを知ります。と同時に女工の苛酷な現実も知ります。
時代を減るごとに労働環境は向上していき、敗戦によって農地改革が実現し、労働組合もできます。このルポが書かれた昭和20年代後半になると、工場主の慰みものになることもなくなり、その代わりに盛んになったのが売春でした。
ヤスの時代、女工たちは1日17時間働いて、給金は5銭2厘。「三銭織姫」は実際には3銭5厘で相手をしたらしく、ちょっとの時間で一日の給金の7割に匹敵する金を得られたわけです。
戦後になっても、労働時間は減ったとは言え、平均11時間から12時間。給料は2400円程度。今で言えば3万円か4万円です。
それでも一日4時間か5時間は自分の時間がとれます。また、工場が近代化し、外出がより自由になったこともこれを容易にしました。
工場の近くに客を紹介するオバサンと呼ばれる中年女性たちがいて、客はオバサンに部屋代として100円を払い、女工には50円を払います。給金が80円ですから、1時間かそこらで50円をもらえるなら効率がいい。
この50円でひとつ10円のアンパンを買うのが彼女たちの楽しみです。
給料が安いだけでなく、それを楽しみにするくらいに日々の生活は退屈で辛いってことでしょう。なにしろ楽しみは寮でエロ本を読むことと、Y談をすることだけなのです。売春はちょっとしたこづかいをもらえるデートってわけです。
組坂松史は、斡旋人に金を払って女工にも会ってますし、彼女たちの寮にも行っていますから、この辺の記述は伝聞ではありません。
工場主たちも売春していることはある程度わかっていて、風紀が乱れているとの評判が立つと女工を集められにくくなると心配をし、華道や茶道を教えようとしても、すぐに飽きる。キリスト教や天理教など宗教団体の講師を呼んで説教をしてもらってもらっても関心を示さず。教養を身につけさせようと、蔵書を持ち込んで図書部を設置しても、通俗小説しか読まない。
そんなことより彼女たちは、町に出て映画を見るか、部屋でゴロゴロしていることを選択する。そして、売春をして小遣い稼ぎ。
この辺の話も、「現実というのは、そんなものだろう」と思えますし、現実を知ると、「売春はいけない」などといくら建前を言っても虚しくなることを組坂松史はよく知っています。
また、組坂松史が見聞した範囲では、噂がたって人が集まらなくなる心配はなさそう。親たちも娘が工場に行って色気づいたことを「一人前のオナゴになった」と喜んでいたりするのです。
この辺の感覚は今の時代にはわかりにくいのですが、半世紀前くらいまでの日本の田舎はどこもこんなもんだったのだと思われます。組坂松史のルポにはこんな話がよく出てきますし、それ以外のものを読んでも、日本人の多数派は禁欲的な生活をしていたわけではありません。
筆者はその後、秩父を再訪するのですが、1954年(昭和29年)には、大半のハタバは閉鎖に追い込まれていたと言います。少なからぬ女工たちが都市部に流れ、歓楽街で働くようになったことが想像できます。
続きます。
「吉原炎上」のウソ 35/娼妓と女工 13
新井鉱一郎という福岡出身の小説家がいます。小説は読んだことはないのですが、昭和20年代、組坂松史というペーンネームで雑誌「りべらる」に書いていたルポルタージュは一通り読んでます。
この時代の雑誌はいい加減なものが多くて、その内容を疑わないではいられないのですが、「りべらる」は比較的信用できる雑誌です。とりわけ組坂松史は、毎号、現地に行って人々の話を丹念に聞いており、おおむね事実なのだろうと推測できます。
これらのルポは『女の地図』(あまとりあ社・昭和30年)にまとめられています。
その内容の意義深さと面白さに比して、古本の価格は安い。内容をよくわかっている古本屋だと2千円くらいつけていることもあって、妥当な金額だと思うのですが、新書ですので、店頭では300円くらいで売られていたりもします。見つけたら迷わず買っていただきたい。連載当時は人気があって、部数も多かったはずですが、現在、組坂松史という名前はほとんど知られていないので、買う人がいないみたい。
当時、組坂松史は佐賀に住んでいたようで、そのため、九州地方のルポが多いのですが、すでに今は残っていない伝統的な性の習俗を取りあげている一方で、戦後の混乱期ならではの現象や、近代化が進むことによって取り残された地域の困窮などをも性という切り口で浮き彫りにしており、他のものでは見られない貴重な記録になっています。
とりわけ注目すべきは売春というテーマです。「なぜ女たちは売春をするのか」という古くて新しいテーマを解釈する際にも、組坂松史のルポは多くを示唆します。
『女の地図』の最後に、埼玉県秩父地方の女工たちを描いた「五十円織姫の性態」という文章が収録されています。今はその名残しかありませんが、秩父は養蚕地だったため、絹織物の産地として知られていました。
織物工場は地主たちが独占し、地主に借金をしている小作農たちは、娘たちを女工として差し出すしかありませんでした。年期は三年、お礼奉公が一年。明治期の労働時間は18時間にも及びました。寝る時間以外すべて労働です。
ご多分に漏れず、外出することもできない。大正時代には、集団で脱走することもあったそうですが、すぐに捕まって元の生活です。
その上、寝ている時間さえも工場主に支配されていました。工場主に代わる代わる呼ばれて同衾しなければならないのです。こうしてことごとくの女工は、工場主に手をつけられていました。
こんなことをしていたら、工場主は寝首をかかれても仕方がないと思うのですが、現実は私の想像を超えていました。
女工たちはこれを「お慈悲を受ける」と呼んで、そうされることを望んだのです。子どもを孕めば手当が出るからです。うまくすれば妻か妾になれて、工場では働かなくていい。親たちもそれを望んでました。
逃亡するのは必ずしもそれを嫌がったためではありません。逃亡するのは子どもを孕むことができなかったためだと地元の人は語っています。子どもを孕むことがもっとも大事な仕事である女たちにとって、孕めないことで自分を責め、親に対する面目も潰れてしまって、いたたまれなくなったのでしょう。
この話を私はまず疑いました。筆者の組坂松史も同様で、こういった話をしてくれる地元の人に「ほんとうかな」と何度も聞いている会話が出ています。
女工が置かれた環境の悲惨さは『女工哀史』の範囲内とも言えますが、それに向かう女工たちの意識、親たちの意識は、『女工哀史』では読み取れず、現実は想像力をしばしば超えるものだとつくづく思い知りました。
そのことを知った上で、よくよく考えてみれば、女工たちが、工場主に呼ばれることを願っていたのもわからないではない。この辛い環境から逃れるもっとも確実な方法は妊娠です。親も喜ぶのであるなら、それを望むってものです。
また、それくらいしか娯楽がない。地元の人は「そういう女達にとって、たった一つの慰めは、エロだけだったんです」と言っています。つまりは、猥談とオナニーとセックスです。女たちは蚕を性器に這わせてオナニーをしたという話まで出ています。くすぐったいのを我慢して、工場主に呼ばれる日を待つ。この方法は「今(昭和20年代後半)」でも行われているとありますから、秩父に住む老婆たちに取材すればそんな話を聞けるかもしれない。
つまりは、『女工哀史』に書かれていたようなオナニーに関する噂話はどうやら本当にあったことらしい。全員が全員やっていたわけではないでしょうが、他に楽しみもないわけですから、やっていたのがいても少しもおかしくない。
工場主に呼ばれることは最大の娯楽であり、その日くらいは夜業から逃れ、おいしいものを食べられるかもしれない。
とりわけ秩父にある閉ざされた工場であれば、情報だって得られないわけですから、「こんなもん」と思ったであろうことは想像に難くない。
性については、自分の感覚を他者に投影する人が多いのですが、同じ時代、同じ地域に生きている人でさえもまったく違う感覚が身についている人たちがいくらでもいて、まして時代が違えば、今とは違う感覚が社会を支配していたかもしれない。その想像ができない人たちは性について語らない方がいいと思います。
この「五十円織姫の性態」は続きがあって、そちらこそがこの文章のメインテーマです。詳しくは次回。