遊郭
「吉原炎上」のウソ 43/平気でウソをつくテレビ
思い切り話が遠回りしてしまいましたが、話はドラマ「吉原炎上」です。
とくにこのドラマがひどいのではなく、ここまで説明してきたように、遊廓についての間違った情報は、今まで多くの書物やドラマ、映画で垂れ流されてきました。
したがって、このドラマだけを非難してどうになるものでもないのですが、たまたま観てしまったのが運の尽き。もう一年以上前のことですね。
母から祖母の話を聞いていたはずの斎藤真一でさえも、「遊廓で女たちは酷い目に遭っていて欲しい」という願望から、現実を歪めてしまいます。その斎藤真一の『吉原炎上』を「遊廓で女たちは酷い目に遭っていて欲しい」という願望でさらに歪めたのがドラマ「吉原炎上」です。
このシリーズで、あのドラマのおかしな点を縷々指摘してきたわけですが、それらにはほとんどすべてにおいて、その願望が反映されています。
「娼妓たちは外出できないで欲しい」
「娼妓たちは互いにいがみ合っていて欲しい」
「娼妓たちは年季明けの前に梅毒で死んで欲しい」
「娼妓たちは自分の運命を儚んで自殺、心中して欲しい」
「娼妓たちは火事で多数死んで欲しい(わざわざ吉原が全焼した時期にずらしている点)」
「死んだ娼妓は寺に投げ込まれて欲しい」
などなど。
ここまで一般的に流布する遊廓の見方がいかに間違っていて、いかに偏っているかを確認するために、ドラマ「吉原炎上」のおかしな点を指摘し続けてきたわけですが、最後に、もうひとつ、ふたつ、このドラマのおかしな点を見ていくことにしましょう。
ドラマでは、善人としか思えない人物をひどい悪人に仕立ててます。これは遊廓に対する誤解というより、原作を改竄することの問題です。しかも、あまりに無惨な改竄です。
久野の幼なじみで、結婚を約束した勇吉という人物が出てきます。彼は妹から久野が遊廓にいることを聞いて会いに来て、かつての約束を確認し合います。
いずれは結婚できるものだと思っていた久野ですが、勇吉が軍人であるというのはウソであり、結婚して、子どももいることを人から聞いて半狂乱になり、無我夢中で遊廓から逃亡したことはすでに書いた通りです。
遊廓から逃げ出した久野は、勇吉の家にまで行って妻子がいることを知ります。勇吉は久野に「誰が女郎と結婚なんてするか」などとひどい言葉を投げつけます。
この部分はドラマが原作をどう考えているのか、事実をどう考えているのかを雄弁に物語ります。
勇吉という人物がいたのは原作にある通りで、久野が遊廓に入る前から、彼らはセックスもする関係でした。これも、すでに指摘したように、ドラマではこのことには触れてません。
勇吉が妹に聞いて、久野に会うため、吉原に来るのは原作通りですが、最初から、勇吉は結婚して子どもがいることを告白しています。当然、久野がそのことを人から聞いて半狂乱になるなんてこともないし、それを確認するために逃亡もしていない。
現実の勇吉は繰り返し久野のところに客として通い、久野は外出許可を得て、遊廓の外で会っていたにもすでに書いた通り。
勇吉は、久野が火事で焼け出された時はすぐにやってきて、見舞金を渡しています。結婚はできずとも、互いの間には強い信頼関係があって、なお愛し合っていたのだと言っていいかもしれない。
軍人であったことはウソではなく、彼は戦死してしまいます。ドラマのようなひどい人間ではなく、原作では、久野にとっては最初から最後までいい人として描かれています。
「結婚しても遊廓に遊びに来るような人間をいい人として描くわけにはいかない」「売春をする人間と、その客の間に信頼関係などあってはならない」と考えたからといって、また、所詮遊廓の話だからといって、あるいは、その人物も関係者もとっくに死んでいるからといって、ああもひどい人物に仕立てることは許されないのではないか。もし久野が生きていたら、こんな改竄を許すはずがない。
原作のままではドラマにならなかったのかもしれません。世間一般にある遊廓の誤解をいちいち説明してられず、かといってそれを説明せずに、花魁がトップレディーだった時代をそのまま出すわけにもいかなかった事情は理解できないわけではないですが、だったら、原作なんて使わずに、オリジナルのデタラメをやればいいだけではないですか。
ドラマの勇吉がウソまでついて久野を弄ぶことと同様に、テレビドラマがウソまでついて、事実に基づいた原作を弄ぶことは、私は許されないと考えます。
視聴率をとってゼニを儲けるためにはなんだってやってのけるテレビに、表現者としての、それ以前に人としての当たりまえの倫理を求めることは土台無理な話なのでしょうか。
次回、「『吉原炎上』のウソ」の最終回です。
「吉原炎上」のウソ 42/鷲尾浩の慧眼
公娼制度の廃止を求める廃娼派に対して、公娼制度の存続を求める人たちを存娼派と言います。この人たちは、必ずしも、当時の遊廓をそのまま肯定していたわけではなく、働く女たちにとってよりよい環境を作り出すことを求めていた人たちもいます。そのためには、廃娼派の主張はむしろ邪魔になるのだと。
こういう人たちが書いた本まで斎藤真一は読むべきでした。
鷲尾浩(1982〜1951)がその一人です。鷲尾浩は歴史小説家・鷲尾雨工の本名。鷲尾浩の名前でも、『婦女の姿態』(民衆之友社・昭和21年)『性の探究』(櫻書房・昭和27年)『絵で見る性生活の新工夫』(魚住書店・昭和40年)などなど、セクソロジー関連の本を多数残しています。
大正時代には、冬夏社という出版社を立ち上げて、自ら翻訳を手がけたブロッホ著『現代の性的解剖』、ハヴロック・エリス著『性の心理』などを出しており、この夏冬社で出版した全集「現代社会問題研究」の第十一巻として『風俗問題』(大正10年)を建部遯吾との共著で発刊。
この本は素晴らしい内容です。
原文を引用したいところですが、長くなりますし、読みづらい人もいそうな文章のため、簡単にまとめます。
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奴隷制度のごとき公娼制度は許しがたいものではある。しかし、この社会においては、必然的な制度であり、これをなくすためには、社会制度そのものを改革する以外にない。廃娼運動は、この本質的な問題を見えなくするのみであり、強いて公娼制度をなくすことは、富豪たちの生活をそのままにして、女たちをさらに不幸に追いやることに他ならない。形式的に公娼がなくなったとしても、女たちは私娼としてより過酷な条件で働くしかない。したがって、公娼制度を残した上で、よりよい環境を作り出すのが得策である。
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この辺の主張は、建部遯吾ではなく、鷲尾浩によるものです(すぐに探せないので確認できないのですが、たしかそうだったはず。上の文章は今回現物を見て書いたのではなく、かつてメルマガでまとめたものです)。
こういう結論を導き出すために、公娼制度のみならず、私娼の実情も数字で示し、非常に説得力のある論を展開し、廃娼運動の誤りを強く批判しています。
この時代に生きていたら、私もおそらく同じ立場をとったでしょう。
飢えて死にかねない農村の現実を見ずして、あるいは遊廓以上に苛酷な女工の現実を見ずして、遊廓のみを批判したところで問題は解決せず、それどころか、事の本質を見失う。それらの解決を求めつつ、遊廓を温存して、その中での労働環境、労働条件の向上を図るということです。
また、女たちが必要としていたのも、公娼制度の廃止ではなく、売春に対する批判でもなく、よりよく働ける環境ですし、よりよい条件です。
明治30年代には熊本の二本木遊廓にあった東雲楼でストライキが起きていますが、これも労働環境向上を求めたものであり、廃娼を求めたものではありません。
具体的に鷲尾浩が公娼の問題点として挙げているのは前借です。これが許されているから、女たちの自由が拘束されて、「奴隷制度のごとき」遊廓になってしまいますし、女たちの立場が弱くなってしまいます。
金を貸している以上、楼主は女たちが逃げることを恐れる。だから、行動を縛る。
前借をなくし、自由に仕事を辞められ、店を選択できれば、それこそ今の時代の風俗産業のように、自然と労働条件が向上します。
楼主たちも税金を搾り取られていたのですから、自ずと限界はあるわけですが、悪質な店を排除することはできます。
もちろん、これは他の産業においても同様で、必然的に、あらゆる産業に改革を求めることになります。
この本は当時非売品として少部数出されただけのようです。政治体制、社会体制を批判する内容を含んでいたため、おおっぴらには出せなかったのかもしれません。
農村の苛酷な現実があるから、工場は安い労働力を確保できた。また、農村の苛酷な現実と工場の苛酷な現実があるから、遊廓も私娼も人を確保できた。その際に前借を出した方が人員の確保が容易になり、管理もしやすくなる。工場も遊廓も同じです。
にもかかわらず、廃娼運動は社会の矛盾から目を逸らし、遊廓の制度や楼主たちだけを悪者にするだけの偽善的な運動でしたから、国家にとって、また、当時の支配層にとってはむしろ好ましい運動だったと言えます。だからこそ、政治家たちさえも、廃娼運動をサポートしたわけです。
廃娼運動が内包していた矛盾点や、その担っていた役割については、かつて繰り返し文章にしているので、ここではすっとぱすとして、そろそろ話をドラマに戻すとします。
「吉原炎上」のウソ 41/斎藤真一の限界
ようやく話は戻って、ドラマ「吉原炎上」の話です。その前に、原作者の斎藤真一について。
原作である『吉原炎上』は、正しくは『絵草紙 吉原炎上』で、「祖母 紫遊女ものがたり」という副題がつきます。版元は文藝春秋。
これが出た昭和60年に河出書房新社から、斎藤真一は『明治吉原細見記』を出しています。こちらはA4サイズの大判で、画集のような体裁です。
こちらも所有していながら、今まで文章まではちゃんと読んでいなかったのですが、改めて読んだら、祖母の話を入れつつも、明治の遊廓一般に関する記述が中心になっています。
『明治吉原細見記』の方が絵の点数が多いのですが、『吉原炎上』に掲載された絵はすべて『明治吉原細見記』にも収録されているようです。どちらの本も絵を見せる体裁になっていて、同時期に同じ絵を掲載した本を出すのは契約違反、少なくともモラル違反ではなかろうか。あるいは、文章が違うし、趣旨も違う本なので、許されるのかな。私もよくはわからんです。
それはいいとして、母から聞いた祖母の話を淡々と記述している『吉原炎上』に比して『明治吉原細見記』はそこから離れて吉原一般の話になっており、そこに著者の見方を加えている分、遊廓の悲惨さ、娼妓の哀れさが強調されているように感じます。
著者は多数の資料に目を通していますから、事実は事実として記述しています。例えば投げ込み寺について、【実際には、楼ごとに墓があって、そこに埋葬されたようなのだが】と書き、「投げ込み寺」という名称から、【まるで猫の死骸を捨てるように、おり重なって投げ入れられる】ようなイメージが作られてしまったと書いています。
現に遊女の遺体を境内あるいは墓に粗雑に投げ込んだように思っている人が少なくなくて、著者はそれを誤解であると指摘しているわけです。
ところが、【浄閑寺を「投げ込み寺」と名付けて平気でそう呼んでいたということは、遊女がそのくらい非道い扱いを受けていたことの証である】【遊女を扱う気持ちは「投げ込む」ような乱暴な気持ちだったことに変わりない】と一方的な解釈を持ち込んで、せっかく調べた史実を台無しにしてしまってます。なんでこうなるかな。
すでに書いたように、「投げ込み寺」という名称は安政の大地震の時にできた言葉という説と、妓楼の墓に投げ入れるように葬ったとの説があって、前者の方が正しそうなのですが、もしそうだとしたら、娼妓の悲惨さとは関係がありません。地震が悲惨というだけのことです。
安政の大地震の際に、遺体を遊女とそれ以外に峻別して、前者のみを乱暴に穴に放り入れたとでも言うのでしょうか。あるいは、関東大震災の際、東京大空襲の際、広島や長崎の原爆投下の際に、身元の確認もできないまま、焼いたり、穴に投げ入れたりしたのは、「非道い扱い」であり、「乱暴な気持ち」によるものだったとでも言うのでしょうか。
「投げ込み寺」の由来が後者だとしても、遺体を引き取りもせず、線香のひとつもあげてやらない親族と、そんな義務などないのに、葬儀をやり、墓に葬ってやった妓楼とどちらが酷薄なのかってことです(親族を責めても仕方がないところがあるのですが)。
つまり、「投げ込み寺」という名称は、本来の意味をねじ曲げられ、「遊女は非道い扱いを受けていて欲しい」「乱暴な気持ちで扱われて欲しい」という人々の心のうちを投影されたものとして使用され続けているに過ぎず、この言葉から、遊廓の現実、遊女たちの現実を読み取ることは不可能です。ここから読み取れるのは、言葉の意味をねじ曲げる人々の非道さ、乱暴さです。
なお、新宿の太宗寺など、浄閑寺以外にも、「投げ込み寺」と呼ばれる寺が遊廓の近隣にはありますが、これらは近代になってから後付けで呼ばれるようになったものなのではないかとの疑いを抱いてまして、そのうち調べてみようと思います。
斎藤真一の論理からするなら、関東大震災の時に、存在しない門の扉を閉じて娼妓が逃げられないようにしたというデマをとらえて、「平気でそういうデマを流す人たちがいたということは、遊女がそのくらい非道い扱いを受けていたことの証である」とも言えることになります。たしかに非道い扱いですが、非道い扱いをしているのは、遊廓や娼妓についてはウソを言ってもいいのだとばかりにデマを流した人たちです。
どうしてこうも売春をした女たちは悲惨な扱いをされていて欲しいと願うのかな。そう願うのは勝手ですが、その願望から事実をねじ曲げないで欲しい。
こちらの本には、吉原の娼妓がその時代のトップレディーだったとの話は見当たりません。祖母から聞いた話、自分が体感した話から離れて、一般的な事実を記述すると、斎藤真一でもこうなってしまいます。
これが斎藤真一の限界です。斎藤真一は多数の資料に目を通していますが、まだまだ足りない。あるいは中途半端に資料に目を通したがために、そうなった可能性もあります。
遊女たちが悲惨な扱いをされていてくれれば遊廓を否定できるし、売春を否定できる。そう願う人々が事実をねじ曲げて書いた資料が世の中には多いですから。
母から聞いた祖母の体験談をそのまま受け入れていた方が遊廓の正しい姿を理解できたはずで、事実、それを柱にして書かれたのが『吉原炎上』です。いかに斎藤真一が偏見に満ちた人だったとしても、親族から聞いた話までは改竄できず、祖母を貶めることはできなかったのでしょう。
斎藤真一が生きているうちに、『吉原炎上』と『明治吉原細見記』の二冊の矛盾をどう自分の中で整理していたのかを聞いてみたかったものです。「自分の祖母だけは特別」と思っていたのでしょうか。
続きます。
「吉原炎上」のウソ 40/遊廓の背後にあるもの
『あゝ野麦峠』では農業の悲惨さも描いていて、なぜ工場に働きにいかなければならなかったのかの事情も理解できます。実家の手伝いをするよりも、女工になった方がまだマシだったわけです。メシも満足に食えないのでは、そう思うのは当然です。
実家から離れて、遊廓で生活することを選択したのもまた当然です。しかも、その労働環境は女工よりさらにマシでした。自ら選択したわけではなく、親が話を決めたケースが多いでしょうが、それで言えば女工も同じです。本人が決定できる選択肢などありませんでした。
また、すでに書いたように、女工の年季が明けたあと、私娼や公娼に行く女たちが多数いたのは、まだマシな環境を求めた結果であり、こちらは自分の意思です。
長らくこの国の多くの女たちは、「売春した方がまだマシ」あるいは「はるかにマシ」と思える環境にいて、それを奇異なこととは思わない人たちが多くいたという事実を踏まえない限り、遊廓の実相は見えてきません。
そこを理解しないから、あたかも女たちが騙されて遊廓にやってきたかのような妄想を広げます(私娼ではこういう例があったにせよ。あるいは公娼でもそういう例が皆無だったとまでは言えないにせよ)。
しばしば遊廓を批判する人たちは、このような現実を無視して、遊廓のみを取り出して、それだけが突出して悲惨であったかのように見せようとします。姑息であります。
ことさらに遊廓のみを叩きたがる人たちがいるのは、売春に関わるためです。廃娼運動にせよ、公娼制度の廃止にせよ、外圧や外来のものです。つまりはキリスト教的な思想が背景にあって、もともと日本には、売春に対する罪悪視はほとんどなかったと言っていい。だからこそ、斎藤真一が書くように、明治にあっても、吉原の娼妓たちは、その時代のトップレディーだったわけです。
すでに明治時代には西洋かぶれの人たちが多数いましたから、日本の中でも「売春はけしからん」と思っている人たちがいたのも事実ではあるのですが、だとしても、公娼のみを批判するのはおかしい。社会全体の構造に視点を向けなければ根本的な解決などできるはずがない。
南喜一という人物がいます。この人については、今までいろんなところで取りあげているので、ここでは簡単に済ませすが、南喜一はもともと工場主だった人物です。しかし、関東大震災を機に工場を解散して労働運動に転じます。ブルジョアからプロレタリアートに自らなったのです。
戦後は再び経営者となり、財界の大物として名を為すのですが、昭和初期には、玉ノ井で私娼解放運動をやっています。
玉ノ井は大正時代に誕生した私娼窟です。浅草の十二階下と言われる私娼窟が警察の取り締まりと震災にによって壊滅にいたって以降、玉ノ井は隆盛を極め、永井荷風も通ったことで知られ、滝田ゆうの漫画の舞台にもなっています。
この玉ノ井で、南喜一は、契約書の不備を突いて二百人を越える女たちを「解放」しているのですが、故郷に戻ったはずの女たちは次々と元の娼婦に戻ってしまいます。ひとたび娼婦になった人間を社会は迎え入れないというのではなくて、南喜一が気づいていなかった事情がここにはありました。
ある私娼を親もとに送り届けた時に、親たちが迷惑がっていることを知って、やっと南喜一は、自分がやってきたことの無意味さを理解します。
娘を食わせることができず、娘の前借や仕送りで辛うじて生活している家族たちにとっては、娘が戻ってきても喜べない。女たちが南喜一に頼ったのは、借金を帳消しにした上で、さらに売春稼業を続けて仕送りをしたり、借金をするためでしかありませんでした。
ブルジョア出身の南喜一には理解できていなかった現実を知って、なんと身勝手な善意で運動をやっていたのかと自分の愚かさを悟り、この運動からきれいに手を退きます。信仰という絶対的な正義のためではなく、女たちのためと思ってやってきた運動ですから、その無意味さを悟れば手を引くのはもっともです。
過酷なのは、遊廓なのでなく、売春という稼業でもなく、凶作に喘ぐ農村の現実であり、社会保障が整っていなかった時代の日本だったのです。
明治時代には公娼制度の廃止を求める廃娼運動が高まります。年末の社会鍋で知られる救世軍がよく知られますが、この運動を担ったのはキリスト教徒たちです。
彼らの主張は、本質的な問題に手を触れずして、売春に対する嫌悪感から、公娼制度を批判したものでしかありません。こっちは宗教的正義ですから、社会がどうあれ、女たちの生活がどうあれ、知ったことではありません。
廃娼運動を担ったキリスト教徒たちは、自分らがいかに多くの娼妓を救ったかを戦果として誇ったのですが、この時に廃娼運動に頼った女たちの中にも、南喜一を頼った女たちと同様の思惑があったことは想像に難くない。彼らは追跡調査をやっていないため、数字は出ていませんが、調査をしていたとしても、発表はしなかったでしょう。都合が悪いですから。
今の時代に私が言っているだけではなく、廃娼運動が高まっていた時代に、このことを的確に指摘していた人たちがいます。廃娼運動では問題は解決しないのだと。
綿々と信仰が続く宗教の力もかかわって、廃娼運動に関する資料は多く復刻されていますが、それを批判するものはほとんど復刻されれておらず、廃娼運動が当時どういう見方をされていたのか、今ではわかりにくくなってきています。
では、次回以降、それを確認していくとしましょう。
「吉原炎上」のウソ 39/娼妓と女工 17
新年あけましておめでとうございます。暮れであろうと新年であろうと、何の関係もなく、話を進めていきます。
2月くらいには「『吉原炎上』のウソ」シリーズを終了して、1回読み切りスタイルに戻したいと思っているので、もう少々おつきあいください。
女工の生活を描いたものとしては、『女工哀史』と並んで、山本茂実著『あゝ野麦峠』(1968)が知られます。明治から昭和にかけて長野県に多数あった製糸工場に出稼ぎに出た女たちから得た証言を元にしたノンフィクションであり、映画で観た人も多いことでしょう。
『あゝ野麦峠』においても、『女工哀史』同様の悲惨な生活、苛酷な環境が描かれているのですが、これに対しては悲惨さを強調しすぎているという批判がなされています。
食事もロクにとれず、栄養を補うために、蚕のサナギを食べる。病気になっても働かされて、働けなくなると、わずかな見舞金を手にして工場を追い出される。逃亡しても追われて工場に連れ戻される。
長野の製紙工場でも、そんな現実があったにもかかわらず、本人たちは、それを悲惨だとは必ずしも感じていなかったようです。
以下のサイトに、当時製紙工場で働いていた人たちの証言が出ています。
http://www6.plala.or.jp/ebisunosato/nomugi.htm
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女工哀史は粗悪な食事、長時間労働、低賃金が定説になっているが、飛騨関係の工女は食事が悪かった・低賃金だったと答えたものはいなかった。長時間労働についても苦しかったと答えたのはわずか3%だけで、後の大部分は「それでも家の仕事より楽だった」と答えている。それもそのはず、家にいたらもっと長時間、重労働をしなければ食っていけなかった。
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もちろん、時間が経ったがために辛い記憶が薄れたということもあるでしょうが、それにしても、食事や低賃金への不満はゼロで、一日13時間から14時間におよぶ長時間労働が苦しかったとするのはわずか3%しかいない。
ここでは、『女工哀史』に取りあげられた女工たちと、『あゝ野麦峠』』に描かれた女工たちとの環境の違いを指摘しています。「あの本ほど長野ではひどくなかったのだ」と。
『あゝ野麦峠』の舞台は製糸工場。対して、『女工哀史』で取りあげられているのは紡績工場がメインです。製糸工場は養蚕地にあったのに対して、紡績工場は都市型の工場です。
製糸工場は近隣の農村部から季節工として労働力を集め、紡績工場は全国からかき集める必要があります。前借をはずむしかなく、その分、苛酷に搾取する。また、小規模な工場が多かった製糸工場に比べ、紡績工場は大規模です。それらの特性の違いから、どちらかと言えば製糸工場の方が長閑だったようです。
したがって、長野県岡谷市あたりの製糸工場は、紡績工場に比べると比較的マシな環境だった可能性があるわけですが、それにしても、自殺者や逃亡者が出たような環境だったことには違いなく、外出が禁じられ、労働時間が長かったことにも違いはない。「それでも家の仕事より楽」と答えています。
前回書いたように、『女工哀史』に描かれた都市型の工場においても、果たして細井和喜蔵が嘆くほどに、女工たちが自分らの置かれた環境を細井和喜蔵と同様に嘆いていたのかどうかはいささか疑問です。
売春問題でもよくあることなのですが、世に流布する売春の悲惨話を、遊廓や赤線をよく知る人たちはリアリティをもって受け取ることができず、私自身、古い時代を知っている人たちに、「それは公娼の話だろう」「それは昔の話だろう」と言われたことが何度かあります。
外部の人たちが過剰に書き立て、時に創作を交えて誇張した情報を、当時者である彼らは「よその話」「過去の話」としてしか受け取れないわけです。
それと同じことが女工においても起きていたと言ってよさそうです。細井和喜蔵は外部の人間ではないですが、視点が外部にあったかもしれない。
また、ここでは、娼妓より悲惨な女工の生活が「家の仕事より楽だった」と感じるような現実があったことを見逃してはならないでしょう。野麦峠を越えて工場に向かう女たちは、「辛い農作業からしばらく逃れられる」と喜んでいた。
自殺者や逃亡者が出るような過酷な仕事にもかかわらず、300万人もの女工たちをつねに確保することができたのは、農業はそれほどまでに辛かったからです。
子どもが家の手伝いをするにしても、夜明けとともに起き、日が暮れるまで外で働く。夜は夜で、作業がある。それでも白い米など食べられず、口にできるのはヒエやアワ。
工場では、結核や事故のために死ぬ可能性さえあったわけですが、家にいたら餓死する可能性もあった。
だから、小作農たちは、子どもらを働きに出しました。男の子は軍人にするか、商店の丁稚に出す。あるいは、地主のところに下働きに出す。時には芸人の子どもとして金で養子に出す。九州であれば、年長者を炭坑に送り込む。
女の子で器量のいいのは娼妓、あるいは芸妓にし、そうじゃないのは女工に出す。今で言えば、たったの数十万円のにしかならなくなても、ありがたかった。
このような社会の中で、工場が成立し、遊廓が成立していたのであって、娼妓が悲惨なら女工はさらに悲惨、そして農業はさらにさらに悲惨。このことを踏まえない限り、遊廓を正しく理解することはできません。
長くなりましたが、女工と娼妓の比較はここで終わりにし、これを踏まえて次に進みます。