遊郭
「吉原炎上」のウソ 36/娼妓と女工 14
前回取りあげた組坂松史著『女の地図』に掲載された「五十円織姫の性態」の話を続けます。
筆者が秩父を取材しようと思い立ったのは、たまたま秩父の温泉旅館に泊まった時に、隣室に来ていた地元の小学校校長に五十円で売春する「秩父織姫」の話を聞いたのがきっかけです。
その校長は教え子たちが売春する現実に恥と怒りを覚えて、物書きである筆者に訴えかけたわけです。
大正初年、秩父鉄道が開通し、人の出入りが容易になり、この年から、秩父織姫売春が始まったと地元の古老が語っています。仕入れにきた商人に「三銭売春」を持ちかけたヤスという処女の織姫がいました。三銭というのは今で言えば600円くらいです。
秩父の工場の多くは、ハタバと呼ばれる小規模な機織工場です。近代的な工場と違い、管理は比較的ゆるい。
また、秩父あたりだと、都市部の工場とは違って、女たちは地元の出身です。「田舎に逃げ帰る」という発想がなく、「都会に出る」という発想もなく、一生その地で死んでいく。そういった女たちを使う小さな工場では、まだしも人間的な扱いもされていたようです。
前借で縛らなくとも、女たちには働く場所がない。彼女たちが結婚する相手も地元の男たちであり、工場主たちは、そういった男たちと女工の交際にも寛大でした。結婚しても引き続き働く女たちが多かったためです。
そのため、外出がゆるいハタバが多く、それをいいことに、売春するのが出てきたわけです。
ヤスは「三銭織姫」と囃し立てられ、彼女のことを好きだった男もこの地を去り、彼女は父なし子を3人産んで、戦時中に51、2歳で亡くなったそうです。
しかし、彼女は始まりでしかなく、彼女のように安価で売春する女たちが続き、それが戦後いよいよ盛んになったというのです。しかも、この頃の50円は今の500円から1000円くらい。ヤスの頃の三銭と変わらない。
この話を聞いた筆者は、改めて秩父に行って取材をし、それが事実であることを知ります。と同時に女工の苛酷な現実も知ります。
時代を減るごとに労働環境は向上していき、敗戦によって農地改革が実現し、労働組合もできます。このルポが書かれた昭和20年代後半になると、工場主の慰みものになることもなくなり、その代わりに盛んになったのが売春でした。
ヤスの時代、女工たちは1日17時間働いて、給金は5銭2厘。「三銭織姫」は実際には3銭5厘で相手をしたらしく、ちょっとの時間で一日の給金の7割に匹敵する金を得られたわけです。
戦後になっても、労働時間は減ったとは言え、平均11時間から12時間。給料は2400円程度。今で言えば3万円か4万円です。
それでも一日4時間か5時間は自分の時間がとれます。また、工場が近代化し、外出がより自由になったこともこれを容易にしました。
工場の近くに客を紹介するオバサンと呼ばれる中年女性たちがいて、客はオバサンに部屋代として100円を払い、女工には50円を払います。給金が80円ですから、1時間かそこらで50円をもらえるなら効率がいい。
この50円でひとつ10円のアンパンを買うのが彼女たちの楽しみです。
給料が安いだけでなく、それを楽しみにするくらいに日々の生活は退屈で辛いってことでしょう。なにしろ楽しみは寮でエロ本を読むことと、Y談をすることだけなのです。売春はちょっとしたこづかいをもらえるデートってわけです。
組坂松史は、斡旋人に金を払って女工にも会ってますし、彼女たちの寮にも行っていますから、この辺の記述は伝聞ではありません。
工場主たちも売春していることはある程度わかっていて、風紀が乱れているとの評判が立つと女工を集められにくくなると心配をし、華道や茶道を教えようとしても、すぐに飽きる。キリスト教や天理教など宗教団体の講師を呼んで説教をしてもらってもらっても関心を示さず。教養を身につけさせようと、蔵書を持ち込んで図書部を設置しても、通俗小説しか読まない。
そんなことより彼女たちは、町に出て映画を見るか、部屋でゴロゴロしていることを選択する。そして、売春をして小遣い稼ぎ。
この辺の話も、「現実というのは、そんなものだろう」と思えますし、現実を知ると、「売春はいけない」などといくら建前を言っても虚しくなることを組坂松史はよく知っています。
また、組坂松史が見聞した範囲では、噂がたって人が集まらなくなる心配はなさそう。親たちも娘が工場に行って色気づいたことを「一人前のオナゴになった」と喜んでいたりするのです。
この辺の感覚は今の時代にはわかりにくいのですが、半世紀前くらいまでの日本の田舎はどこもこんなもんだったのだと思われます。組坂松史のルポにはこんな話がよく出てきますし、それ以外のものを読んでも、日本人の多数派は禁欲的な生活をしていたわけではありません。
筆者はその後、秩父を再訪するのですが、1954年(昭和29年)には、大半のハタバは閉鎖に追い込まれていたと言います。少なからぬ女工たちが都市部に流れ、歓楽街で働くようになったことが想像できます。
続きます。